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江刺の稲

「社長、交代の時期です!」

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第27回 1998年02月01日

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本誌の25号(平成8年10月発行)で、この雑誌の一つの役割は、もう終えてしまったのではないかと感じている。それを目指していたはずなのに正直言って少し気が抜けてしまった。その一つの役割とは、我が農業界のなかで「農業経営者」という農業の経営主体の存在とその役割を明らかにしていくことであり、その誇りを擁護することにあるからだ。
 本誌の25号(平成8年10月発行)で、この雑誌の一つの役割は、もう終えてしまったのではないかと感じている。それを目指していたはずなのに正直言って少し気が抜けてしまった。

 その一つの役割とは、我が農業界のなかで「農業経営者」という農業の経営主体の存在とその役割を明らかにしていくことであり、その誇りを擁護することにあるからだ。

 未だ、行われるべき農業の構造政策はその具体策として示されてはいない。むしろうしろを向いた行政施策がとられたりもしている。しかし、昨年秋に米価が大幅に値下がりしたことが契機とした混乱の中で、歴史的存在としての「農業経営者」という階層が、我が国の農業の中で、その役割を果す時代がきていることに人々も気付き始めている。

 我が国の農業は、農地解放を契機に戦前の地主階層に代わり、農林省(当時)という社会主義者のオーナーの元に経営管理が行われるようになった。常にオーナーの顔をうかがい続ける地方行政組織と農協組織を現場のマネージャーとする形で、我が国の戦後農業は経営されてきたのである。その中で、当の農家は高米価や様々な補助金という死に至る安楽椅子を与えられる反面で、経営者として自立していくチャンスを奪われてきた。

 日本という高度に成長した資本主義国のなかにある社会主義農業体制は、実態的には早くから沢山の綻びを見せていた。それでも、右肩上がり成長を続けた産業界にお荷物と思われながらも、そこに落とされる税金の山を産業界に還流させ続けることでその体制が守られてきた。

 しかし、農地解放から約半世紀を経て、昨年の米価の暴落によってそのベルリンの壁は誰の目にも明らかに崩れてしまったのだ。

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