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新・農業経営者ルポ

勇気一つ。世界へ突き抜ける日へ

コメどころと言われながら兼業化が進む福井県で、転作の受託に活路を見出した経営者がいる。自らも兼業農家に生まれ、脱サラ就農。その経歴が「農家に対する営業力」につながり、補助金を当てにしない姿勢を貫いてきた。目覚めた者ゆえの苦悩と葛藤を抱えながら、未来への扉を開こうとする。その原動力は「勇気一つ」(秋山基)
 収穫を間近に控えた圃場――と表現するには、あまりにも寒々しい光景だった。株の列が大きく蛇行した大豆。背丈は低く、完全に雑草に覆われてしまった箇所もある。茎葉が青いまま伸び、汚粒の原因となる「青立ち」が、ほぼ一面にまん延した圃場も珍しくはない。

 「この辺りでは、こういう転作田が普通なんですよ。たいていは作物を真剣に作ろうなんて気は全然ない。作業を受託する農家も、転作奨励金を地主と分け合えればそれでいいんでしょう」

 片岡仁彦はそう口にして、「モラルが低いんですね」とつぶやいた。

 福井県福井市。県庁や市役所のある中心街から車で15分も走れば、稲作地帯に入る。ただ、周囲には幹線道路が走り、宅地化も進んでいる。通りに面して量販店やディスカウントストアが並び、背後には圃場整備された水田が広がる。農道沿いには、真新しい集落営農の格納庫が点在している。

 片岡はこの地域で、大豆とジャガイモの栽培を中心に農業を続けている。大豆はすべて周辺農家から請け負った転作で、奨励金は基本的に地主に渡す。が、先に述べたような「普通の転作田」と、片岡が任された圃場の差は歴然としている。株はまっすぐに並び、雑草も目立たない。青立ちも、多少見られるといった程度だ。

 「私は補助金に頼りませんから、大豆がどれだけ採れるかが勝負です。それに、受託した転作田を草ぼうぼうにしてしまったら、地主さんの理解は得られませんよ」

 毎年、20ha以上に大豆を作付けするような受託者は、片岡を除けば周囲に一人もいない。収穫後、農協に運搬すると、アルバイト職員が「また、こんなにたくさん豆を作って来て」とあきれるのだという。

 「不評ですよね。彼らの仕事を増やすことになるんだから」と、本人はいたって屈託がない。

夢のない青春メカニック出身の脱さら就農者  片岡は兼業農家の長男として生まれた。学生時代は自動車やバイクに凝り、地元の大学で機械工学を学んだ。

 祖父、父は2代続けて市役所に勤めたが、片岡は公務員になる気はなかった。「勉強は嫌いでしたし、無気力って言うんですかね。将来への夢が何もなかった」。

 結局、実家が兼業でメカが好きという理由から、JA福井市に就職する。マシンセンターに配属されれば、農機の修理ができると考えたからだった。

 しかし、JA勤務は3年も続かなかった。購買部に回されたのは仕方なかったとしても、夜になると、各農家を回り、家庭用パン焼き器、背広、宝石といった商品を販売する仕事が待っていたのだ。

 「なんでJAが農家にパン焼き器を売るのか、さっぱりわからなかった。当然、売れるはずがないんだけど、そうなると、支店長以下、給料から自腹を切って売り上げを水増しするんです」

 嫌気がさしてJAを辞め、知り合いを頼ってBMWのサービス工場に転職。受付係を1年務めた後、メカニックとして働けるようになった。片岡にとっては元来、好きな分野でもある。やがて顧客から整備の指名を受けるまでに腕を上げた。

 「他のメカニックは、作業をお客さんに見せたがらないのですが、私はできるだけお客さんに整備の様子を見せて、納得してもらうように心がけたんですよ」

 だが、顧客からの評価は、同僚たちから妬まれる原因にもなった。加えて、片岡は「ダラダラ残業」を嫌った。自分の仕事を済ませ、残業の必要がなければ、定時に退社していたため、ますます周囲からは浮き上がった。

 そんな頃、たまたま県の農政担当者や何人かの専業農家と知り合い、何回か話すうちに漠然と就農を思い描き始める。

 「たぶん、ずっと前から頭の片隅には農業があったのでしょう。家は兼業でしたが、農作業は面白いなと感じていた。だけど、きっかけがなくて踏み切れなかった」

 きっかけは、93年の冬に起きた。当時の細川首相がGATTウルグアイラウンドに合意し、ミニマムアクセスに基づくコメの輸入解禁が決まった。

 「これからは水稲をやめる農家が出てくる」。そう直感すると、片岡は7年間務めたBMWを辞め、95年、1.3haの水田で専業へのスタートを切った。

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