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新・農業経営者ルポ

自ら選ぶ道、困難も夫婦ならさらに面白し

 後日、叶野夫妻にその大変さを尋ねると、二人は顔を見合わせて笑うだけだった。夫唱婦随というべきなのか、明美もまた、そんな人生を困難とは思わない、似た者夫婦というべきなのだろう。

 二人が一所懸命になるのは家の仕事だけでない。藤島の農家グループは毎年、東京・練馬の光が丘団地で開かれるイベントにくる。そこにも毎年欠かさず夫婦で参加する。夫婦揃って精一杯働きつくしているというのが、筆者の見てきた叶野夫妻なのである。

 現在は3.2haのジャガイモと1.5haのニンジンを、契約した鶴岡市内4ヵ所の給食センターを中心に、量販店や業者に通年出荷するのが経営の中心になっている。そのほかにも、やはり契約の形で枝豆1.2ha、赤カブ1haなどを栽培している。以上の基幹的作物に加えて、アスパラガス、タマネギ、辛味ダイコン、ウド、カボチャ。さらに、つい先日まで叶野が店長を務めていた地域の直売所に置く品物として、また地域に新作物を根付かせようという意味も込めて、ズッキーニ、プチベール、ルッコラ、ウルイ、行者ニンニクなども作っている。

 働き手は、叶野夫妻と後継者の幸喜(28歳)の三人。それに外国人の研修生を受け入れることもあるという。その労働力でよくぞここまでできるものだ。


悩みのなかにいた青春時代

 叶野が通ったのは庄内農業高校定時制だった。コメ全盛の当時、この地域で水田の少なさとは、農家としての貧しさを示す指標だった。父は出稼ぎに出ていたが、それでも叶野には定時制でも農業高校に行くことを命じた。

 そして農繁期になると、自分たちの水田作業は早々に終わらせ、父親とともにほかの農家に田植えや稲刈りの出稼ぎに行くのが常だった。当時の農業高校には農繁休暇があった。親に言われてアルバイトのつもりで手伝いに行ったのに、父親は叶野には小遣いすらくれない。大きな水田を持つ農家が羨ましかった。貧しい農家として生きることは絶対嫌だと思った。

 19歳で就職したのは水道工事会社。でも配属されたのは営業部門だった。技能を身に付けたいと思っていた叶野は、住宅設備工事の会社に転職する。そこで職人としての修業をすることができた。やがてあれほど嫌だと思っていた農業に戻りたいと思うようになった。叶野は23歳になっていた。


 叶野が農業に戻ってこようと思い立ったのは、反発しながらもその指示に従うほかなかった父がレールを引いた、タバコ作があったからだった。

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