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新・農業経営者ルポ

農業者の”甘え”に気付かされた苦しみの日々

水稲および各種野菜の直売、レストラン経営。さらにトマトジュースやスィーツゼリーなどの商品を全国に販売する(株)谷口農場。今でこそ2億9千万円を売り上げる、北海道を代表する農業法人のひとつに成長しているが、一時は農協に資産処分の同意書にサインを迫られるほどの危機に陥ったことがある。北海道農業法人協会会長も務める同社社長・谷口威裕は「若い人の他山の石となれば」と、その失敗を語ってくれた。取材・文/昆吉則 撮影/永井佳史

一時は離農勧告を受けながら

  北海道旭川市にある(株)谷口農場。社長の谷口威裕は1949年3月生まれ。妻・洋子とともに今年還暦を迎えた。家族は両親の栄武(84歳)、澄子(81歳)とも健在である。子供は一男二女。うち二女の紅美子(30歳)が谷口農場の直売所「真っ赤なトマト」の店長として働いている。

 農場の総作付面積は約45ha。30ha弱のコメと約4haのトマトを中心に、ジャガイモ、スイートコーン、黒大豆などのほか、各種の野菜類を生産する。生産物とその加工品は農場の直売所「真っ赤なトマト」や農場レストラン「農場キッチン・赤とんぼ」で販売。直売所では自社製品だけでなく旭川市内の農産物や加工品も販売する。昨年からは旭川の人気観光スポットである旭山動物園にも店を出している。

 谷口農場の人気商品は直売店の名前の由来にもなったトマトジュース「真っ赤なトマト」、そして北海道加工食品フェアで優秀賞を受賞したトマトゼリー「谷口農場のスイーツトマト」。この2商品についてはデパートや量販店へ出荷量の方が多い。

 別会社にしている加工工場も含めて、売り上げは約2億9千万円。従業員は家族3人を含めて16人(うち4人役員)、季節雇用するパートが現在38名。

 そんな谷口農場も、一時は農協から離農勧告を受け、全資産処分の同意書に署名を求められるような事態に陥ったこともある。


農業に「巻き込んでくれた」父

 谷口農場を1970年に法人化したのは父である。父はそれを口実に谷口に農業への夢を抱かせた。

「いいか威裕、うちの農場は会社にする。お前には月々給料を払うからな」高校生の谷口に、農業ではなく事業経営を夢見させたのだ。農業の法人化などほとんど話題にならない1960年代のことである。70年時点の谷口の月給は1万2千円。大豊作だったその年の冬には10万円のボーナスをもらった。にもかかわらず父は谷口に言った。

 「コメも作れんのじゃ農業も駄目だな。お前は働きに出ろ」

 そう言われた谷口が、「大変な時だからこそ家族が力合わせてやらんきゃならんべさ」と答えるのを見越していたのだ。

 父は続けた。

「それなら、冬も家族皆で仕事ができるようにならんといかんな。だったら冬にキノコはどうだ。長野県でエノキというのが当たっているらしい。担当はお前だ」

 俄然、谷口はやる気を出した。絶妙な後継者対策だった。すでに父は畜舎を改築して作るキノコ施設の図面を引き、利益計画まで立てていたのだ。

 70年10月に種付けをして、12月の末が初出荷だった。出荷は旭川の市場。価格は計画より2~3割も高い。しかし、出荷を始めて二十日も経たない1月10日、キノコハウスを失火で全焼してしまう。でも谷口らは、わずかな期間でも儲けの大きさを体験していた。すぐに再建に取り掛かった。71年の秋から以前の施設の倍の規模で生産が始まった。7~8人を雇用するようにもなった。

 71年は北海道の水稲作況指数が66という凶作の年である。谷口農場でもコメは大幅な減収となったが、キノコの収益がそれをカバーして余りある利益を出してくれた。

そんなエノキタケも78年には止めることになる。産地が増えるにつれて価格は低迷し、さらにキノコに病気が発生するようになり歩留まりが落ちた。そのため薬剤もたくさん使うようになり、そんな生産の仕方に疑問も出てきた。最後の2年間くらいは赤字になっていた。

 でも、でも谷口は、それで儲ける醍醐味を味わった。農業が規模拡大だけではなく、複合経営や加工部門の取り込みで発展もあることを知った。父の下で働いたおかげである。

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