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新・農業経営者ルポ

上野満という希有の農業指導者の子、孫として受け継ぐ誇りと夢と葛藤


強烈な農本主義者であると同時に農民を無知から解放し、真の農村人としての教養を高めさせることを満は人生のテーマと考えるようになった。しかし、そんな満も家の仕事と独学を続ける暮らしの後に家を捨てた。武者小路実篤が大分県日向に作った「新しき村」に満の理想があると思ったのだ。そこは、誰もが1日6時間の労働義務を果たせばあとは自由に哲学、文学、芸術を語り合うことが許されていた。しかし、新しき村の経済的運営は構成員の労働の成果ではなく、実篤の私財で賄われていた。夢のような2年間だったが、経済的自立がなければ個人の本当の自由はないと考える満にとっては、実篤に寄生して生きる都会育ちの芸術青年たちと共に生きることに嫌気が差したのだ。
その後、実篤の縁もあって埼玉県川越市の地主から小さな農地を借り、そこに自ら小屋を建てて5年間の晴耕雨読の日々を送る。そんな思索のなかから農民が農地と技能を出し合う協同農場で1日8時間、週6日労働、平等の分配という協同農場建設の組織論を作り上げる。そんな満の理論が評価され、満州の現地人部落の指導農場長として派遣される。さらに、日本の若者による開拓義勇隊訓練本部の指導者となる。その後、徴兵、シベリア抑留を経て、新利根で新平須協同農場の建設に取り組む。同時に、各地の協同農場建設と指導に茨城県内だけではなく、全国を走り回った。
新平須農場では74年に4人一家族で出稼ぎをせずとも年収300万円が得られるまでになった。それは、協同農場の成果であるとともに、日本の経済成長の結果でもあった。農家であればこそ食費がかからず、100万円の借金で作れた構成員の住宅も返済がほとんど終わり、住居費も少ない。それで十分な暮らしが可能だと彼の著書には書いてある。しかし、その数年後に協同農場は崩壊する。15戸の入植で始まった協同農場は現在、個人経営で酪農が7戸、園芸が1戸あり、その他は在村のまま離農している。崩壊の理由は、世代交代と時代の変化だった。
上野満に憧れて集まった人々が構成員だった時代には彼らに強い共感関係があった。しかし、構成員が世代交代すると親たちが持っていた共感関係がなくなり、それぞれの欲も出てくる。また、カリスマ的指導者だった満が組織を“支配”できなくなり、満の思想は実現できなくなったのだろう。
さらに、満が生きてきた農民が貧しく、国民も飢えていた60年代まではともかく、70年代に入ると欠乏より過剰、空腹より満腹による病理が人々や社会を苛むようになる。そんな時代になると、満の農本主義、そして協同農場の平等主義の理念では人々を納得させられなくなった。

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