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新・農業経営者ルポ

未来を見る目で顧客満足を追い求める世界で唯一の「梅山豚屋」

養豚家として事業展開を続けてきた父を「ライバル」とし、事業家になりたいと夢を描いていた塚原昇(48歳)。塚原のこれまでの苦労ととことんやり続ける覚悟、徹底した顧客満足主義の中には、農家ではなく事業者たるにはどうあるべきか、そのヒントが多く散りばめられている。これまでとこれから、そこから学べるものを探ってみたい。  文 北川祐子/写真 塚原昇・昆吉則
茨城県猿島郡境町。商店街を抜け、スーパーマーケットから15分ほど歩くと、住宅街のど真ん中に畜産用飼料タンクが見えてくる。そこが(株)塚原牧場である。典型的な畜舎が立ち並ぶものの、しんと静まり返り、畜産特有の臭いが全くなく、本当に豚を飼っているのかと驚くほどだ。
ここでは、母豚規模100頭、常時飼養頭数約2000頭の養豚経営を行なっている。飼っているのは世界的にも珍しい中国原産の「梅山豚(メイシャントン)」だ。代表取締役である塚原昇の父・弘が1989年に中国へ買い付けに行って以来、26年間この地で「梅山豚屋」として経営を続けている。

生協産直をきっかけに
養豚専業へ

塚原の実家はもともと稲作をしていたが、ある時、転機が訪れる。50年後半に、埼玉県大学生協で活動していた叔父から「学食のクジラ肉を豚肉に換えたい。豚肉を持ってきてくれないか」と要望が入ったのだ。
当時は豚1頭すら飼っていなかった父だが、この要望で一念発起し、県のセンターで豚の飼養管理に関する研修を受けて、早速、養豚に取り組んだ。また、大学生協に卸すためには、後の豚枝肉のカット設備が必要であることから、自宅横に食肉センターを建設。その運営のために、近隣の養豚家40軒を束ねた協同農産(株)という出荷者組合兼販売会社も立ち上げた。そうして着々と準備を整え、あっという間に大学生協への産直を開始し、ピーク時には大学生協への販売だけで売上70億円、130人を抱えていた。
そんな父を見ながら育った塚原は、農家を継ごうとは思っておらず、「父はライバル。いつか自分も事業家になりたい」という思いを強く抱いていたという。その夢をかなえるため、大学では労働法を専攻。卒業後はベンチャーキャピタル(投資ファンド)に就職を決めた。これも、よりたくさんの社長と会い、経営を学びたいという気持ちからだった。数々の企業を上場に導いていく中で、自分でもそろそろ経営をやってみたいと思うようになった5年目、93年に父から「梅山豚をやらないか」と声が掛かった。

生産効率、収益性の悪い
「梅山豚」の導入へ

梅山豚は、日本はもとより、原産国である中国でも原種を見ることが難しい希少品種である。72年の日中国交正常化の際、ジャイアントパンダの次に中国から農林省(当時)に兄弟豚10頭が寄贈された。そこから何軒かの農家に払い下げが行なわれたが、梅山豚をメインに飼養する養豚場は、後に導入した塚原牧場を置いて他に残っていない。これには、梅山豚という品種特有の理由がある。

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