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北海道馬鈴薯でん粉物語

北の大地に馬鈴薯が根づくまで


このように、明治から現代までの馬鈴薯栽培、でん粉製造について整理して記録しておくことは、温故知新の観点から大切なことと思えた。筆者自身、整理する能力には疑問符がつくものの、昭和30年(1955)以来、畜力時代の末期から昭和60年(1985)の30年間は、いろんな形で馬鈴薯栽培やでん粉製造の研究にかなり関与した自負があり、あえて明治からの技術変遷をまとめる仕事にかかわりたいと考えた次第である。

ペルーの民族食チューニョは
でん粉製造のルーツか?

馬鈴薯は、ヨーロッパに飢饉が続いたときに食用としての価値が認められた。17世紀に入ると不動の地位を占めるようになり、品種改良や栽培技術が進展する。比較的貯蔵性に優れている作物でもあり、船積み食料として注目された。
しかし、低温で貯蔵するなどして貯蔵条件を整備しても、作物の生理から見て200日が限界であろう。より長く食用にしようとすれば、なんらかの加工が必要である。
ペルーの山岳に住む原住民は、夜間に塊茎を凍らせては日中に融かして足で踏み、汁液を搾り出すということを繰り返す脱水乾燥イモの「チューニョ」を作っていた。
チューニョは馬鈴薯加工の始まりであろう。この技術は、北海道でも開拓民の飢饉に備える保存食として注目され、製造が奨励された。脱水機が開発されるなどして、かなり省力的に製造できるシステムも作り上げられている(写真)。
チューニョは食用として利用されたばかりでなく、でん粉を製造するもうひとつの技術として注目された。粉砕して水に浸せば、でん粉は沈殿して取り出しやすくなり、工程を短縮して製造できる。
開拓期の農家は労働力が不足しており、すべての作物が秋に円滑に収穫できるとは限らない。また、馬鈴薯をでん粉に加工しようとしても、でん粉工場に余力があったとはいえない時代である。
「冷凍~脱水~乾燥」という工程を踏めば貯蔵可能なので、任意にでん粉にできる。手間を要するとしても、原料を無駄にすることなく、それなりにひとつの技術として評価された。

紆余曲折を続けた
でん粉製造

馬鈴薯は、主食のような役割を果たしているばかりでなく、加工することで付加価値が高められる有為な作物である。寒さに強く、安定した収穫を保証するのも魅力である。北海道農業にとっては不可欠の作物であったが、何よりも開拓期から現在まで継続して北海道の農業経済を支えることに大きく貢献してきたといってよいであろう。とくにでん粉製造についてはいろんな曲折がありながら異彩を放っている。

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