ナビゲーションを飛ばす



記事閲覧

  • このエントリーをはてなブックマークに追加はてな
  • mixiチェック

北海道馬鈴薯でん粉物語

北海道農業の発展過程と特質


明治27年(1894)ごろに開墾面積は10万haに達し、馬鈴薯でん粉製造も始まる。日清戦争は明治27年(1894)、日露戦争はその10年後の明治37年(1904)に勃発するが、この10年の間に耕地は25万haも増え、35万haとなった。開拓は本格化し、軌道に乗ってきたといえるであろう。耕地面積が増えれば農耕は畜力に頼らざるを得ない。二つの戦争を通じて馬匹改良が進み、農家は軍馬補充を兼ねて耕馬を育成する。華族農場では畜力ボトムプラウや方形ハローを輸入するとともに、機械鍛冶を養成して国産化に着手する。実質的な洋式農業の展開である。
日露戦争からさらに10年が経過し、大正3年(1914)には第一次世界大戦が始まる。ヨーロッパの場合、国は地続きであるので、戦争となれば全土が戦乱の渦に巻き込まれ、食糧の生産は途絶える。食糧を世界から買い求めることになるが、北海道からはインゲン、エンドウ、馬鈴薯でん粉などが輸出の対象となり、高値で取引されたことから農家経済は大いに潤い、農家は力をつけた。大正10年(1921)には耕地面積は85万haを突破する。
その後、動乱が治まった反動で不景気時代を迎え、耕地面積の拡大は低迷した。それでも、昭和10年(1935)ごろから回復し、約95万haとなる。昭和16年(1941)から第二次世界大戦が始まると、若者が戦争に動員されて労働力不足から作付けできず、80万ha前後に減少する。95万haに回復するには約25年を要した。
昭和30年(1955)ごろからホイールトラクターが導入されだし、昭和40年(1965)代に入ると畜力と世代交代する。プラウやハローはもちろんのこと、ポテトハーベスターやビートハーベスターが国産化され、機械化一貫体系が成立した。平成に入ると耕地面積はさらに拡大し、120万haに達する。

【2】主要作物の作付面積
「厄介道米」も今は昔

明治維新後、蝦夷地が北海道と呼ばれ、本格的に開拓を始めるのは現在から約150年前のことである。明治2年(1869)に開拓使が設置され、畑作や酪農を主体として本格的な洋式農業を展開しようとする。明治5年(1872)には札幌に官営鉄工場を建設し、機械鍛冶を養成して洋式農機具の製作を開始した。また、明治13年(1880)には札幌に甜菜製糖工場を建設し、不足していた甘味資源を供給しようとしたが、工業力も乏しく、甜菜を栽培する経験もなければ無理というものである。結局、挫折してしまった。甜菜製糖が安定的に行なわれるようになるのは大正9年(1920)であり、40年後のことである。最初の製糖工場は官営のビール工場に改造され、ビールを製造することになった。サッポロビールでは現在でも麦芽工場として使用している。

関連記事

powered by weblio