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北海道馬鈴薯でん粉物語

開拓期の馬鈴薯栽培とでん粉製造

[1]明治と大正初期のでん粉生産量

北海道のような寒冷地では水稲の栽培は無理と考えられていた。コメは府県から移入するものとし、主食を補うものとして小麦やソバ、馬鈴薯の栽培を奨励した。馬鈴薯は寒冷地向きの作物であり、安定して収穫できることが魅力的であった。そのうえ、食用としてはもちろんのこと、品質に優れていることから種子として販売することもでき、でん粉に加工すれば付加価値が高まるとあって、有用な作物であった。でん粉の用途は広いので販売に苦労することもなく、開拓の当初から基幹作物と位置づけられていた。
『北海道農業発達史』の年譜によれば、早くも明治15年(1882)に渡島の八雲村で辻村勘治が販売用のでん粉を製造するものとしてでん粉製造機を開発している。これを契機に次々と改良されて新機種が世に出る。
渡島は明治維新前から開かれていたこともあるが、七重勧業試験場や川田男爵農場、八雲には徳川農場などがあった北海道の先進地である。明治11年(1878)、開拓使は馬鈴薯1石(180リットル)を原料として17.5斤(10.5kg)のでん粉を作っている。明治14年(1881)には規格外馬鈴薯10俵120貫(450kg)を原料として70斤(42kg)のでん粉を作った記録がある。
徳川農場は明治17年(1884)に水車を作ってでん粉の量産を試みているが、未熟な腕と経験不足もあって5年で閉鎖している。しかし、その後に八雲の農家は水車や馬力を動力源として製造法を研究し、でん粉製造の事業化の道を拓いた。馬鈴薯からでん粉を作るのは他作物より利益が多かったこともあり、他地域でもでん粉製造に取り組むようになって活況を呈する。
馬鈴薯でん粉は他のでん粉に比べ粒子が大きく、糊化するときに粘度があるのが特長とされている。そのため、保水力や吸水力に優れる。モスリンなどの紡績用糊としてのでん粉は輸入に依存していたが、品質が認められると明治30年(1897)から国産馬鈴薯でん粉に切り替えられている。モスリン工業の発達とともに需要が多くなり、生産量を増やした。
表1に明治時代から大正時代初期の年次別生産量等の推移を示した。これをわかりやすく図解したのが図1である。明治の後期から生産量が増えるが、それは開墾面積も増えて農業が活性化してきたことに加え、日本全体で工業が発達してきたなどの理由による。でん粉は輸出も行なわれるようになり、大正時代に入ると第一次大戦が勃発してヨーロッパへの輸出量が増える。もちろん、価格も高騰し、北海道の農家は経済的に大いに潤った。

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