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新・農業経営者ルポ

条件の悪さは農業経営者の妨げにはならない


熊谷の様子を聞いていた当時の大田花きの社長から「バラをやってみないか」という誘いを受けた。
当時、バラは夏場になると品薄になり、品質も落ちるのが常だった。高冷地の産地も少なく、夏場はバラの生産や消費も極めて限られていた。大田花きの社長は、これからは必ず夏場のバラ需要が伸びるはずだと熊谷を励ました。しかも、熊谷が住む鮭川村曲川集落という場所が、豪雪地帯ではあるが、夏場の気温の日較差が大きく、良いバラができると見込んでいたのだ。始めた当初は地床栽培だったが、熊谷にとっては初めて取り組むバラである。それも露地のリンドウに対して鉄骨ハウスで冬場には大量の石油をたいての栽培。日較差の大きな涼しい気候を利用するとはいえ、夏場をメインとする生産だ。それまでの熊谷の取り組みを見てきたからこそ市場は彼を見込んだのだ。
リンドウを始めて15年目、平成元年(1989)のことだった。
バラと聞き、熊谷は心が躍った。リンドウでも業界の最高額を得る地位に立った。しかし、リンドウに比べバラの価値観は別物だと熊谷は思った。新しい夢ができた。総額で約7000万円の投資が必要だった。3000万円は自己資金。補助事業で残りをまかなえないかと考えた。しかし、豪雪地帯の最上地方では油をたく施設園芸は認めないという基準があった。同じ県内でも山形市内は認められている。それは、オイルショックを契機にしたものだった。すでに油事情は改善していたのだが。
でも、待ってはいられない。役人が考えることと経営者の判断は別物だ。残金は融資で鉄骨300坪のハウス3棟を一度に新設した。
バラを始めた1年目にもかかわらず、熊谷のバラは最高の出来だった。その当時は輸送に冷房車もない幌をかけたトラックだ。それでも熊谷のバラは東京の市場で大きな人気を呼んだ。そして2年目。熊谷のバラは世界でも一番の評価を受けることになる。オランダで10年に一度開かれるバラの品評会の国内選考に選ばれたのだ。それだけではなく、オランダでの本戦でも金賞を取ってしまったのだ。夏場のコンクールだ。それが熊谷のバラの評価をさらに上げることにつながった。
冬の産地にはかなわないかもしれないが、夏場であれば鮭川村はむしろ最高の産地なのだ。恵まれた夏の気候。しかも、豪雪地ではあるが、寒すぎるということもなく、より北の寒冷地と比べ暖房費を抑えることができる。雪さえ克服できれば勝てる。
いま、最上地方にあるハウスはハウスの間の空間が広く取ってあり、そこに幅広の水路が掘られている。そこに落ちた雪は地下水が融かして流してくれる。これは熊谷が考えだした雪を克服する技術だ。

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