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成田重行流地域開発の戦略学

大島と緑の真珠

東日本大震災が起きた2011年3月11日。この日をきっかけに、地域プロデューサーの成田重行さんは、それまでの仕事を一時中断して、宮城県気仙沼市の大島に通い詰める決心を固めた。20年来にもなる友人や知人の安否に加え、彼ら彼女たちと島の行く末が心配になったからだ。震災から5年近くを迎えた離島に住む人々と成田さんの復興に向けた物語を描く。 文・撮影/窪田新之助
静かな海である。晴れ渡った空の下、どこまでも深い碧さをたたえ、ゆったりと落ち着き払っている。そんな豊かな生命の母のもとで憩うように、港の向こうに広がる海の上で、カモメたちは羽を休めていた。
東京駅を出発したのは午前7時過ぎ。途中、JR東北新幹線の一ノ関駅で乗り継ぎのため1時間近く待たされるなどしながら、4時間半かけてJR大船渡線の気仙沼駅にようやくたどり着いた。
といっても目的の大島はまだ先であった。駅からタクシーに乗って5分ほどの気仙沼港に到着したものの、ここでさらに40分待つことになったのだ。
せっかくなので、港のそばの高台に立つホテルに入って、そこからの眺望を楽しむことにした。

生命のみなもと
豊穣の海

本連載の第一話で紹介したように、成田さんはこれから開発する地域に初めて足を踏み入れると、まずやることが三つある。その一つが高台から町並みを眺めること。鳥の目になってその土地の様子を確かめることで、そこの生活や習慣が把握できるというわけだ。
それに倣ってホテルから眼下を望むと、圧倒されるのは漁港としての規模の大きさだ。何しろ気仙沼港の年間水揚げ高は17億円と金額ベースでは県内トップ。全国レベルでも10位以内に君臨してきた。カツオやサンマ、カキやホタテなどが気仙沼や指呼の間にある大島の人々の生活を潤してきたのだ。
大島に生まれた詩人の水上不二(1904~1965)はこの辺りの海を次のように詩った。

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