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成田重行流地域開発の戦略学

大島と緑の真珠-復興そば物語


「まさにここ気仙沼大島の先人はすばらしい知恵をもっていた。すごい。私は謎が解けたので、再び現場へそばの花を見に行った。枕のそばの実がこうやってガレキの間から見事に花を咲かせているのか。この地域は多くの方々が津波の犠牲になったと聞いている。この人たちの命に代わって、海水につかった塩分の含んだ土の中から力強くも可憐に咲く花。私はそばの花の前にしゃがみこんだ。こみあげる涙がとまらなかった。」

うんざりした毎日に
変化が起きる予感

ソバで復興すると決めた。とはいえすでに9月。播種にはいささか遅い。それでも少しでも収穫できればと思い、急いで東京から種を取り寄せて、まくことにした。
相談した相手は「気仙沼ちゃん」こと、元アイドルの白幡美千子さん。美千子さんは「それなら復興そばと名づけて、お客様にふるまいましょう」となった。
そこで組織したのは手打ちを習得し、ソバをふるまうことを目的とした「気仙沼大島 蕎麦サロン」。成田さんが講師となり、メンバーとなった島民16人にソバ打ちを伝授した。これは被災後、仕事や生きがいを失っていたメンバーに生きる活力を与えたようだ。
前号で詳しく紹介した漁師の水上俊光さんは「海を見るたびに、うんざりする毎日だった。そんなときにソバの話が来た。何か変化が起きるのではと、うきうきした」という。
津波で妻を失った清水洋祐さんは、サロンを開催した初めのころは悲しみのなかをさまよっているような状況だったという。成田さんが当時書いた記録を見ると、「口の先端をややしぼり、眉間にたてしわをつくり緊張していた」「外見ではそばに興味があるのか、おもしろくないのかさっぱりわからず」といった様子だった。ただ、日を追って練習を重ねるうちに、ある日、変化が訪れる。ソバの打ち粉をふるとき、「大胆に足でリズムをとりおどけながら打ち粉をふった」。周りが笑い、清水さんも初めて笑った。

子どもたちにソバを教える
親に対する最高のアピール

サロンでソバ打ちを習得したメンバーたちは生きる自信を得たのだろう。そして、小学校の「総合学習」の時間で、児童たちにソバの栽培から収穫、手打ちの仕方などを教え始める。ほとんどの児童は手打ちソバを食べたことがなかったが、多くの児童は授業で多くのことを学んだようだ。なかには、優秀な成績を取ったときなどのご褒美に、ソバ屋に連れて行ってくれとせがむ児童もいる。成田さんが「彼はすごいよね」というその児童は、大人になったら、なんと大島でソバ屋を出店する野望を持っている。すでに店の間取りや名前を考えているというから面白いではないか。

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