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成田重行流地域開発の戦略学

大島と緑の真珠-復興そば物語


同時に押さえておきたいのは、児童のソバ作りには親が関心を持ったことだ。ある児童は学校の授業が終わってからも、ソバ畑に駆けつけて、その生育を見守った。すると、親も付いてきて、児童と一緒に観察したり、農作業を手伝ったりするのだ。そうやって島民全体に「復興そば」の存在が認知されていった。
この手法は、本連載の1回目で紹介した新宿での内藤とうがらしと同じである。成田さんは東京・新宿で内藤とうがらしの存在を広めるにあたり、小学校で児童を相手に内藤とうがらしのことを紹介する授業を続けている。成田さんはその意図について次のように語っていた。
「内藤とうがらしを作る子どもたちは、そのことを親に話す。それは内藤とうがらしの存在を知ってもらうという意味で、親に対する最高のアピールになる。こういう下地を作っておけば、新宿各店で内藤とうがらしのフェアがあったときに、親も、子どもも、すぐにぴんとくる。もちろん各店にとっても、地域住民が栽培に取り組んでいるんだから、自分たちも何かやろうという動機づけになる」
まさに、この手を大島の「復興そば」でも使ったのだ。この狙いは一定の成果を得たといえる。小学校ではいまでも「総合学習」の時間で児童たちが「復興そば」について学んでいるし、サロンが主宰するソバ打ちのイベントは盛況である。まだ事業に至っていないものの、島民同士で多くの交流が生まれ、「復興そば」は認知された。

小さいものを見るまなざし
立ち止まり、しゃがみ込む

それにしても感心してしまうのは、成田さんが、水上忠夫さんとひろ子さんから大島にソバを食べる習慣があったという昔話を聞いたとき、わざわざその痕跡を探し回った点である。ソバを作って食べるだけなら、東京からソバの実を取り寄せて、畑にまけば済む話である。ただ、それだけではいけなかったのだ。
特定の方法論を持ち込んで、即座に成果を求める地域開発は「成田重行流」ではない。成田さんが大事にしているのは「成果」ではなく「プロセス」である。そのプロセスこそがほかにはない物語をつむぎだす。
そのために成田さんは、かつて大島にソバ文化があったことを証明するものを求めた。その痕跡はがれきのなかにひっそりと咲く花だった。そうした小さいものこそ「成田重行流」の地域開発には大事なのである。それを探すために歩き、ときに立ち止まったり、しゃがみ込んだりしたのである。成田さんは言う。
「小さいということはですね、立ち止まらないとわからないんですよ。立ち止まらないと見えないんです。止まるってことは、いったん、自分のリズムを取って、ちょっと休憩してですね、ほっと見る、止まってみる。そうすると小さいものが見えるんですよ。これは流れのなかでは見えません。それから立ち止まった後、しゃがみ込まないと見えてこない。立ち止まること、それからしゃがみ込むこと、この2つは都会ではできない。立ち止まったり、しゃがみ込んだりしたら、後ろから人に突き飛ばされますからね。でも、この2つは小さいものを一生懸命見ようと思うと、必ずやらなければいけない行為なんです」

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