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成田重行流地域開発の戦略学

大島と緑の真珠(3)小さい人が勝てるものをつくりたい

東日本大震災から5年。気仙沼大島はいまも復興途上にある。前回紹介した「復興そば」のように、そこに息づく文化を掘り起こし育てながら、成田さんはこれからも大島に通い続ける。 文・写真/窪田新之助

離島が孤島になる
頼みの綱を死守

改めていえば大島は離島である。島民たちが「本土」と呼ぶ側から来るには、JRの気仙沼駅から2km近い距離にある船乗り場から定期船で25分かかる。個人的に船をチャーターするなら別だが、いまのところ来島するにはこの定期船に頼るしか術はない。25分などわずかと感じるかもしれないが、時によって、この距離があまりに遠くなることがある。
現代に生きる島民にとってそのことを最も強く感じさせたのは、2011年3月11日に発生した東日本大震災においてだろう。あの日、島を飲み込むような大きな津波が繰り返し襲ってきた。それまで気仙沼と大島を結ぶ連絡線は車両を積載できるフェリーが3隻、人だけを乗せられる客船が2隻あった。それが大津波で3隻のフェリーは大破。2隻の客船も行方不明になったり破損したりして、公共の交通手段は一切なくなった。
その結果、どうなったか。島は一時的に孤島と化した。現代の利器など天災の前にあってみればじつにもろいものである。
津波が押し寄せる直前、大島がやがて孤島となるのを直感的に予想した人物がいる。個人で運営している連絡船「ひまわり」の船長・菅原進さんだ。
菅原さんはあの日、自宅で大きな地鳴りを感じた瞬間、「巨大な津波が必ずやってくる」と直感した。そして何を思ったのか、すぐに「ひまわり」の停泊場に向かい、それに乗り込んで沖に突き進んでいった。
この直前、菅原さんが短い時間のなかで想像したのは次のような事態だ。あれだけの大津波に襲われたら、定期船や漁船はひとたまりもないに違いない。船が1隻もなくなってしまえば、大島はしばらく孤立してしまう。そうであれば、何としても「ひまわり」だけは死守しなければならない。そんな決死の覚悟が、かつてマグロ船に乗っていたときに聞いた、ある言葉を思い出させた。
「遠くの時化(しけ)は早く逃げろ。近くの時化は向かっていけ」

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