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北海道長沼発ヒール・ミヤイの憎まれ口通信

熱烈歓迎 ヒール宮井先生!

前号ハノーバー農機展の続きだ。 農機展が終わり、ハノーバーから南に45分くらいに位置するババリア地方の古都ゴスラーに向かった。農場主へニングは1978年に北海道本別に一夏研修したビール大好きのオヤジである。彼と会うのも6回目くらいになるので、お互いの気心はわかっている。
そのヘニングがL社のカルチベーターに愚痴をかました。何でも作業機前方に装備されたマーカーが、折りたたみ時にクラース・トラクターのフェンダーに当たってしまうとL社のセールスに伝えたら、「フェンダーに当たらないトラクターに交換することを勧める!」と暴言を吐いたそうだ。さすがレムケン・クオリティーだ。

小作人根性のまま
似非ボスになった挙句

彼に近隣の農家を紹介してもらった。名前は忘れたが、興味深い話をするオヤジだった。私の農場の作業風景をユーチューブで見ながら長沼で栽培している作物や農地の価格を説明すると、彼がこう質問した。
「私はこの地方で11代目の農家でやっと60haにすることができたのに、なぜミヤイさんはたったの3世代目で私よりも大面積にすることができたのですか?」
さー困った。人よりも努力したから? それは違うなと感じていたので、こう答えた。
「戦争に負けて小作人根性を持った生産者が発言できるようになった。その数は戦前の10倍だ。その後、幸か不幸か70年で小作人根性を持った者とその遺伝子を引き継ぐ者の多くは農村から都市に向かった。そこではあいかわらず小作人根性同士しか理解できない文化圏を作り、規模拡大が歴史的必然なのにそうさせなかった。その理由は小作人根性を持った人たちに聞いてみないとわからないが、たぶん農政を信じないで自分のやり方やアンチ・アメリカ的なユートピアを信じた結果だと思う。だが私の祖父、父、私は豊かさを目指す日本の農政を信じたので、社会主義的な前頭葉を使う農業は行なわなかったから。たぶんそれは冷戦後の東ドイツ農業と似ているのではないか」

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