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北海道馬鈴薯でん粉物語

合理化馬鈴薯でん粉工場の誕生の経緯と成果

でん粉工場の農協経営

第二次大戦が終結したのは昭和20年(1945)である。ここで長い間の抑圧された生活から解放され、自由の時代を迎える。農村は貧しさから抜け出すには協同の精神で自主的な活動をすべきと若者を中心に活気に満ちていた。当時、士幌には12の商系でん粉工場があり、でん粉の製造は仕切られていた。生産者の立場が低く見られる場面が多く、生産者の意向が反映されていたとはいえなかった。事実、工場の利益が多いのに対して生産者側は少なく、絶えず不満があった。
でん粉工業を発展させるためには、馬鈴薯の生産者にも公平な利益が分配される体制を作るべきであり、この場合、農協がでん粉工場を運営する仕組みがあってよいとされた。当初、農協は購買、販売事業は得手であっても、工場運営は無理だといわれていた。しかし、時代が変わり、何かにつけて積極さが求められていた。新しい時代を切り開くには、まずそれが必要であるかどうかを論議すべきであり、必要とあればあえて挑戦すること、そんな空気がみなぎっていた。
一般に大正族は明治族に比較し、優柔不断の性格が強いとされている。明治維新は革命であり、それを成し遂げた人たちとは違うとする見方である。しかし、大正族は第二次大戦で壮絶な経験をしている。第二次大戦は明治族が引き起こしているが、最前線で戦っていたのは大正族であり、仲間は半分戦死している。たまたま自分は生かされて帰ってきている。滅亡にさらされている国を救うのは自分たちでなければならない。そうでなければ戦死した戦友に申し訳ないとする意識が強い。戦争に行かなかった人たちもその雰囲気のなかにある。
士幌農協には太田寛一、安村志朗などの大正族が勤めていた。購買部に所属していた安村さんは、就業時間を終えるとクローバーの種子を精選して種子作りをするとか、搾油をするとかで利益を得、来るべき事業化のために資金を積み立てていたのである。やる気があればできると事業のための訓練をしていたものと思われる。昭和21年(1946)に売りに出ていた商系のでん粉工場を買い求めると、自ら工場主任としてでん粉製造に取り組んだ。
安村さんは、でん粉作りは初体験であるが、責任感の強い人で、寝食を忘れてでん粉製造に没頭した。9月に始まって12月まで、1日も休まずに働き、当初、1万俵処理の計画のものが、他地域からも原料が運び込まれ、結局4万俵を処理することになった。当時、商系に持ち込むと、8俵の原料で1袋のでん粉が取れるとされていた。歩留まり9.4%である。これに対して安村さんは4万俵で1万袋のでん粉を製造してしまったといわれる。概算としても歩留まりは18.8%である。いかに商系の工場はずさんで暴利をむさぼっていたかである。

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