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北海道馬鈴薯でん粉物語

合理化馬鈴薯でん粉工場の誕生の経緯と成果


安村さんはでん粉販売の利益200万円のうち、150万円を農家の薯代金に上乗せして分配し、50万円を内部留保して次に備えたそうである。
昭和26年(1951)には国の統制が解除になり、そのころには士幌にあったほとんどのでん粉工場が農協の傘下に入っている。昭和29年(1954)、30万俵のうち、24万俵の馬鈴薯を処理するまでに発展している。農村にユートピアを作る、付加価値を高める仕事を、と目標を定め、まず一つの形を整えた。大正族は見事に生き様を示したわけである。太田寛一、安村志朗のコンビはこれを契機にして次々と新しい事業を興して成功させる。昭和28年(1953)に太田さんは士幌の組合長に就任、その後、ホクレン会長、全農会長を歴任し、全国的な活動で農協組織を刷新したことで知られている。安村さんは太田さんの跡を継いで組合長になり、加工原料薯や生食用薯の販売、やがてポテトチップやフレンチフライの加工に取り組んだ。地元の野菜を利用したコロッケ、ポテトサラダの加工に拡大するなど、農産加工を充実させた。苦労を重ねながらもほとんどの事業を成功させているのはすばらしい。
農業協同組合は昭和22年(1947)の組合法で制定された。内容は農民を正組合員として設立され、信用(資金の貸し付け、貯金の受け入れ)・購買・販売・加工・共同施設・福利厚生施設・技術指導など、農業だけではなく、日常生活にわたる多方面の事業を行なうとある。加工・共同施設と明記してあるので、でん粉工場などを運営するについては何ら問題はないのである。ただ、一般的にはそれに対する技術が伴うか一抹の不安があり、どちらかというと敬遠されがちであったと思える。
農産物の生産者が所属する農協が加工するとすれば、これは一種のプランテーションであり、よそに中間マージンなどを取られることはないので合理的であり、利益を多く生み出せる。農協の事業といえば、精米とか製粉程度のことであったが、この殻を破ってあえてでん粉工場の運営に取り組み、これを成功させた意義は大きい。農協職員は大きな資本、技術の要る企業的な仕事は無理とする常識を破り、農協だからこそ成功させればメリットは大きいとして立証したのは大きな功績である。
時代の流れが味方したともいえるが、農協系統はでん粉に限らず、甜菜製糖工場や乳製品工場にも取り組んで成功させている。先導するのは難しいが、苦しいのを乗り越えて形を整えているだけに現在士幌の農家は経済的に恵まれるようになり、日本一の貯金高を誇っている。

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