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【北海道馬鈴薯でん粉物語】
現存する商系馬鈴薯 でん粉工場の奮闘
- 農学博士 村井信仁
- 第9回 2016年03月09日
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昭和47年(1972)には早くも農協系統の合理化でん粉工場が19工場を数えるまでになった。昭和40年(1965)9月に北海道澱粉工業協会が結成され、より内容を充実させてでん粉工業の発展を期そうとする組織づくりも形を整えた。時代が変わると、その合理化でん粉工場も新たなる合理化を迫られる。平成21年(2009)には10工場に数を減らしている。交通インフラが整備されているので、工場は地域に存在しなければならないというものではない。品質をさらに高め、かつ低コスト化に取り組もうとすれば、工場には最新の技術を導入して量産体制を敷くのが賢明である。
さて、商系のでん粉工場はその後どのような道をたどっているのであろうか。農協系統の合理化でん粉工場の台頭で壊滅してしまったかと考えられようが、それよりスケールは小さいとしてもしぶとく生き残っている。平成21年(2009)時点での商系のでん粉工場は7工場である(図1)。平成に入って商系の存在価値が高まってきているのは加工食品用馬鈴薯の消費量の増加と関係している。昭和50年(1975)と平成7年(1995)を比較すると、加工食品用はじつに約3.7倍も増えているのである。この場合、必ず規格外品が出るので、その利活用を検討しなければならない。多くはでん粉に加工することになる。商系で春擦りも行なうというのは、農協などで生食用も含め春まで貯蔵したものを調製して出荷することになるわけだが、この際、相当量の規格外品が発生する。合理化でん粉工場は前提として量産体制であり、また操業期間との兼ね合いから、少量の春擦りは不得手であり、どうしても敬遠してしまうのが普通であろう。地域の要望や特殊用途に応えるためには小回りの利く商系の出番であり、大切な存在である。こうして馬鈴薯の無駄をなくしている。
倶知安町富士見の青木農産澱粉工場は昭和8年(1933)の創業である。商系のでん粉工場は一番多いときで1900工場あったといわれる。昭和30年(1955)から農協系統が合理化でん粉工場を建設し、家内工業的な商系のでん粉工場が淘汰されていったなかでなぜ存続できたのかと推測すると、一代目からの事業精神が受け継がれていたことによると考えられる。
青木農産澱粉工場
倶知安町富士見の青木農産澱粉工場は昭和8年(1933)の創業である。商系のでん粉工場は一番多いときで1900工場あったといわれる。昭和30年(1955)から農協系統が合理化でん粉工場を建設し、家内工業的な商系のでん粉工場が淘汰されていったなかでなぜ存続できたのかと推測すると、一代目からの事業精神が受け継がれていたことによると考えられる。
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村井信仁
農学博士
1932年福島県生まれ。55年帯広畜産大学卒。山田トンボ農機(株)、北農機(株)を経て、67年道立中央農業試験場農業機械科長、71年道立十勝農業試験場農業機械科長、85年道立中央農業試験場農業機械部長。89年(社)北海道農業機械工業会専務理事、2000年退任。現在、村井農場経営。著書に『耕うん機械と土作りの科学』など。
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