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新・農業経営者ルポ

クリとともに55年、苦節40年の“作り屋”秘話


園地を回りながら一通り技術的な説明を受けた。これらの技術が経営とリンクし、順風満帆に歩んできたのだろうと思っていたが、実際はそうではなかった。

HPの開設が生んだ
まっとうな評価と有利販売

「息子がどこかに就職していたら、いまもヒイヒイ言ってクリを作っているだけでしたよ」
小仲は苦笑いしながらこう語る。長男の正章(41)が農業者大学校(注:東京都多摩市にあった。現在は廃止)を卒業後、就農したのは96年になる。その正章が現在にも通じる販路開拓に結びつくホームページを開設したのが2001年のため、小仲が日の目を見るのは還暦まで待たなければならなかった。
順不同だが、小仲は上述した事柄などを実施する一方で、80年代から経営を考え出すようになっていた。
「農協への出荷ではとてもやっていられません。そこで営業するわけですけど、サンプルを持って和菓子屋などを訪問しても契約につながるところは1軒もありませんでした。作り方や品種について説明しても、『味はなんぼでもつけられる』と返されて終わりです」
そんななか、小仲は87年、兵庫県立中央農業技術センター(現・同農林水産技術総合センター)の荒木斉と出会い、低樹高栽培(兵庫方式)を採用する。低樹高栽培とは、樹高を3.5m以内として樹形が台形状に、また低い樹にもしっかり太陽光が当たるよう剪定するものになる。荒木は国内のクリの重鎮だった。収穫期間を考慮し、早生から晩生の品種を計画的に植栽していくことも彼の教えを参考にしている。
その荒木の紹介で京都市中央卸売市場第一市場に向かった。この市場は、クリの市場価格が日本一高いところとして知られていた。某卸売会社と関係が築けると、88年から出荷するようになる。相対取引が多かったとはいえ、従来より高値で取引できた。ただ、ここでも品種ごとに出荷しても、その点に関しては評価してもらえなかった。
それから7、8年は距離にして70km離れた京都市場まで小仲自らハンドルを握って運搬した。すでに50代も半ばに入っており、肉体的に厳しいものがあった。そのとき、救いの手が舞い降りる。正章だった。
正章は農業者大学校在学中の1年間、本誌読者にはおなじみの四万騎農園(茨城県かすみがうら市)の兵藤保の下で修行していた。
「クリ研(全国クリ研究大会)で旧知の仲の兵藤さんに息子の研修をお願いしました。兵藤さんにはクリの苗木も平成に入ったころからお世話になっていたんです。息子にとってみれば大変だったと思いますよ。でも、クリのことは1年を通してみないとわかりませんからね」

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