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特集

農村経営者とは? 地域自立を目指す試み


そして「農家」と同様に「農村」も、「都市」に対する“貧しさ”を埋め合わせるためにさまざまな政策的援助が続けられてきた。60年代末に至ってコメの供給過剰が始まり、71年からの減反政策下においても供給過剰のなかにもかかわらず、生産者米価が政治的に上げられていった。そうした現実の市場社会とは隔離された農業と同様に農村も保護されるがゆえに自立性を持たない政治依存体質になってしまった。
農村住民もやがてほとんどが経済的には農業に依存しない勤労者世帯になっているのに、小さくとも耕作をしているということで農家世帯に分類され、農業・農村であればこその特別な政策的支援が続いた。そのため、農村が持っていた本来の価値を見失ってしまったのではないだろうか。
かつての農村は、いまと比べれば現代的な意味での消費水準は低かったとしても、人間が生きる本来の意味での豊かさがあり、そして何よりも自律的であった。人々は風土が与えてくれる豊かな恵みに感謝し、助け合い、自然の循環を守る智恵を生かしながら、現代と比べればはるかに不便で現代的意味での消費水準は低くとも幸せだった。
しかも、産業発展の結果として、日本では飢えや欠乏に怯える社会は過去のものになった。むしろ欠乏を克服した後にかつて人々が夢見た満腹や豊かさが過剰になることによる病理に悩む社会になってしまった。
人々は田舎暮らしに憧れ、あらゆるメディアが農業や農村を取り上げる。わざわざ高い野菜を買うことになる家庭菜園に人々は熱心に取り組む。小規模農家が大きな経済負担をしながら小規模なコメ作りを続けることも同じだ。そういう暮らし方が楽しいからである。現代の日本であればこそ、農業というより農村あるいはそこにかかわることを人々が求めている。そう考えれば中山間地域とは、都会人にとって投資を必要としないディズニーランドのようなものである。同じく、アジアの人々にとっても我が国の緑なす農山村は憧れの存在である。
中山間地域とは宝の山なのである。そのために、農業経営者に限らず地域開発を考える人々が、ひとまず補助金という麻薬中毒に陥っている己を反省し、村のなかにこそある可能性を掘りだそう。これまで否定的にしか見ることのできなかった我が村には農業の可能性だけでなく、未来の夢が埋まっているのである。それを掘り起こすのが農村経営者の役割なのである。 (昆吉則)

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