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特集

農村経営者とは? 地域自立を目指す試み


すると6人が手を挙げた。ちょうど同じ年ごろの子供たちを持つ父親たちだ。
創業時、生産者と農協と行政が3分の1ずつ負担することにしたいと農協と行政に頼みに行った。農協には空き家を改造して保健所から許可が下りる建屋の準備を頼み、行政には加工機械の一部を負担してくれるように頼んだ。その他にかかる経費は生産者が負担することにした。
こうして発案した翌年1989年、堀江さんを含めた7人で「もち米の里ふうれん特産館」を創業した。
まず新潟の工場を視察することから始めた。やる気さえあればできるという激励を受けた反面、新潟のコメはブランド品だが、北海道のおいしくないコメでやっても無理だという厳しい言葉も受けた。餅の加工機械を買いに行くとメーカーが、餅はやめておけ、おにぎりの機械を買わないかと言われた。
不安を抱きつつ始めた事業。主力商品は、切り餅と大福である。縁あって東京都の杉並区役所から大量に注文を受けることができたのを皮切りに、地元の新聞やラジオ、デパートの物産展などを通じて知名度が上がっていった。
そんな営業のかいがあり、顧客の数は順調に伸びていった。それは喜ばしい一方で、冬の間の仕事として始めたため、年中入ってくる注文に翻弄された。自分で言い出したものの、5年間の無報酬期間は長かった。朝、工場に行ってコメを研ぎ、蒸し、冷蔵庫に入れる。日中は農業をやり、夜、工場に行って餅をついて、翌朝カットして出荷する。注文を受けるにも事務員が工場に常駐しているわけではない。自宅に注文の電話が入ると、家族が畑まで走って知らせにくる。そんな生活を続けた。
数年経って事業が軌道に乗り、従業員を雇えるようにもなった。すると今度は別の問題が起きるようになる。まずは何年かに一度の冷害によるもち米不足である。農協などの調達先からまとまった量が入らなくなると、あちこちから少しずつかき集めたこともあった。
また建屋にかかるコストも大きい。最初の建屋から工場を移転した際、レストランを工場の2階に併設した。それが失敗だった。客が階段を使って2階に上がるのを嫌ったのだ。
「この階段のせいで借金しましたね」
堀江さんは問題の階段の手すりをトントンたたきながら苦笑いした。現在は隣接した道の駅のなかに、直売所とレストランを移転している。
また、コンビニエンスストアとの取引においては、衛生性や安全性への配慮にコストがかかる。査察で指摘されたことは一つひとつ製造工程や機械を改善していった。

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