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特集

農村経営者とは? 地域自立を目指す試み


そのため、鎌田さんが子供のころには地元の栗の生産量は300tあったが、23歳で家業に就くころには10tにまで減っていたそうだ。鎌田さんは「栗きんとんが売れれば売れるほど、地元の栗を使わなくなるという方程式がすでにでき上がっていた。しまいには、地元の栗は品質が悪いから使わないというところもありました。いまも使っていません」と打ち明ける。
ただ、地栗の品質が良くないという評価は間違ってはいなかった。品質の規定とそれに応じた値段の設定がなかったのが理由だ。だから後ほど述べるように恵那川上屋は品質を上げる仕組みをつくる。
こうした実態を知った鎌田さんは自分の仕事を見いだすようになった。それは東濃地方を「栗の里」にすること。東濃地方は「栗菓子の里」ではあるけれど「栗の里」ではない。他県産の鮮度が落ちた栗を使ったところで、農家も客も和菓子屋も心の底から喜ぶことはない。

【お客さんと農家は
私たちの営業マン】

そんな意思を持って23歳になって家業のブルボン川上屋(現・恵那川上屋)に戻った鎌田さんは、すぐに地元の農家から地栗を集め始める。契約する農家の生産した栗はすべて買い取ることにしたのだ。これで思わぬことが起こった。農家は自発的に品質を上げる努力を始めたのである。
同時に販売面で大きな転換を図る。都市部の百貨店各社との契約を一切打ち切ることにしたのだ。代わって販売の拠点として設けたのが冒頭に紹介した恵那峡店。年商1億円だった当時、4億円を借金して建てた。ここに農村経営者としての鎌田さんの賢明な判断に基づく大胆さがある。
とはいえ相当に苦労したようだ。鎌田さんは次のように振り返る。
「当時は火がついてました、売上はなんとか上がるが、利益がついてこなかった。いきなり会社を大きくしたんで、新しく入れた社員は素人なんです。だから生産性が上がるはずがない」
それでも試練だと思って、次の2つのことを心がけて事業を展開することを決意していた。地域の自慢づくり、それから農家の自信づくり、である。販売拠点を地元に移したのはそのためである。つまり地元客に自社の商品を知ってもらい、自慢してもらおうとしたのだ。
そのために鎌田さんがとったのは原始的なやり方だった。本社から車で10分ほどの距離にあるJR中央本線の恵那駅前で、午前6時から7時にかけてチラシを配り始めたのだ。そのチラシでは商品とともに会社や農家の思いを載せた。これが予想以上に効果を上げ、地元だけでなく名古屋からの来客も多くなる。というのも恵那駅でチラシをもらったサラリーマンやOLは会社に着くや、同僚にそれを見せながら地元の銘菓を自慢する。あるいはチラシを見て、栗菓子を買って勤め先や取引先に行くかもしれない。

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