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我が国の米政策はなぜこうなったのか

需給調整の主体は誰か、いまだ続く「が・も」論争

本誌を創刊したのは、ガット・ウルグアイラウンド農業交渉が大詰めを迎えていた1993年5月。自由化交渉が進むにつれて農業関係者はいきり立ち、国会では「一粒たりとも米は入れない!」などとする決議が全会一致で3回も行なわれた。その時点で、ソビエト連邦崩壊後の新しい時代に減反政策が長く続くはずがない、私はそう確信した。ところが、あれから20年余り、社会が欠乏から過剰へと変化したものの、米政策を中心に据えた我が国の農業政策の前提にはいまだに欠乏の原理がある。世代交代が進み、これからの農産業界をリードする若手経営者のなかには食管法時代など戦後農政の歩みを知らない人も増えてきた。そこで、農政改革の転換期に立ち会ったり、当事者としてかかわったりした「証言者」に、米政策の舵取りについて裏話を聞いてみようと思う。前農林水産省農林水産審議官の針原寿朗氏と、日本経済新聞社記者の樫原弘志氏を迎え、過去30年間にわたる米政策の転換をめぐる議論と問題の本質を振り返る。(昆吉則)

「が」が「も」に訂正された
政府・自民党が交わした念書

昆吉則(本誌編集長) 針原さんは米政策の立案に長年携わってこられたわけですが、農水省で最初にかかわったのはいつですか。
針原寿朗(前農林水産審議官) 水産庁、林野庁で勤務した後の入省5年目、1985年1月に農蚕園芸局(注:現在の政策統括部門)企画課に異動し、減反政策担当の総務係長になったのが最初です。もともと高校生のときに減反政策を廃止しなければいけないと一念発起して高校3年生になってから文系に転向し、農水官僚になるために東大法学部に入りました。まだ課全体の下働きが主な仕事でしたが、初めての農業担当が減反(転作)というのは巡り合わせだったのかもしれません。
昆 初志貫徹ですね。その翌86(昭和61)年に、農水省が生産者米価の引き下げに失敗するという“事件”が起きた。今回は樫原さんが持ってきてくれた貴重な歴史の資料(62ページ参照)があるので、この事件を中心にお二人に話を聞きたいと思います。

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