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我が国の米政策はなぜこうなったのか

ウルグアイラウンド合意前後の農政改革と政治情勢


樫原 お蔵入り!! 政治の雲行きに巻き込まれてしまったんですね。
針原 結果的には、翌94年の秋に、自民党と社会党の意見が対立するなか、新党さきがけが間に立つ形で、食糧法の扱いをめぐって一週間徹夜で議論して、ようやく案ができるわけです。流通規制に関しては農協や既存業者の権益、役所の規制の名称が変更されただけのそのままの形で決着し、実質的には食管制度の既得権益がそのまま温存されたんです。
昆 外圧というよりは政治情勢が、改革を難しくしたんでしょうか。
針原 このとき確信したのは「改革と開放は同時にできない」ということです。内政が開放でいきり立っている非常時は、影響を緩和するための対策がまず求められ、平時の政治情勢でも困難な改革などできるはずがないからです。気になって、ほかの国ではどう対応していたのかを調べてみると、改革と開放を同時にやり遂げたのはEUの「マクシャリー改革」(※4)くらいでしょう。ウルグアイラウンド交渉の行く末を見ながら補助金改革を断行し、加盟国それぞれの事情が異なり、内発的な改革ができない場面では外圧を利用して改革を進めました。単一市場化しなければグローバル競争下で生き残れないという強い危機感が背景にあったと思います。

開放を待たずに少しずつ
平時に変革を進める方針に

樫原 ウルグアイラウンドが妥結するまでは辛抱したけれど、結局、妥結した後に思っていたことが実現できたかというと……。
針原 あの時点で責任ある立場にいた人はベストを尽くしたと思います。食管法を廃止して、曲がりなりにも新食糧法をつくっているわけですから。やり足りなかったという批判には当たらないと思いますし、そもそも交渉が妥結すれば大きな改革ができると信じていたことが間違いだったと。
昆 ウルグアイラウンドの対応から学んだことはなんでしょうか。
針原 そうですね。改革と開放を同時にやるにしても、相当大きな改革を企てるにしても非常に無理がありました。私はその後も何度か米政策を担当しましたが、そのつど、自分で作った改革案をドラスティックではない変革(チェンジ)に分解して開放を待たずに平時に少しずつ進める方針に変更しました。具体的には新たな米政策は、先ほどの選択減反の案も分解して実現させたものです。一つは良質米奨励金を原資にして、自主流通米価格が下がったときに収入を補てんする「稲作経営安定資金」として導入しました。同時に、98年以降は政府米の買入制限を設け、政府在庫米が集まらないように備蓄運営ルールを整備しました。

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