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新・農業経営者ルポ

顧客に必要とされ環境も守る道探す

 当時はまわりの農家が12~15馬力のトラクタを買い始めていた頃だったが、草野は24馬力のトラクタを乗り回していた。いわば近代的な農業の最先端にいた。

 顧客と直に向き合うことの面白さと大切さを知ったのもこの頃だった。「ある時期から、農協へではなく、自分で家畜市場へ牛を出すようになった。市場では競りを前に、集まっている博労や肉屋さんに自分の牛を見てもらって批評もしてもらえた。また、そこで知り合った肉屋さんのところへ行くと、肉の塊を出して来て、『この間のお前のとこの肉はこれだ』と見せられた。そうして、その肉の何がどう良くないかといったことを教わった」。

 農協出荷では得られない知識を得ると同時に、仕事の面白さを感じた。「作ったものは、自分で売らなあかんと思った。それなのに、農家で家畜市場に来る人なんか、まずいない。農協出荷、共選、そういうものでは伝票しか回って来ないのに」。

 入った金は再投資していった。年々規模は拡大し、最終的には120頭まで増やしたと言う。

 だが、そんな黄金時代とも言えるような日々を語る草野の目は、急に寂しそうになる。「でも結局、あの頃はあこがれだけだったと思う」と言うのだ。「その後、オイルショックの頃に輸入牛肉が増え始めて、途中からうまく行かなくなった。それで81年に撤退した」。

 最後の頃は農協の預託牛の肥育をしていたが、資金が尽き、ある日、農協が牛も餌も引き上げて行った。

 屈辱だった。しかも、「お前もやれ」と誘ってくれた友人も経営が破綻し、その後間もなく事故死した。そのことが当時の記憶をさらに暗くしているようだ。

 残ったのは、成功体験と友人との二つを失った喪失感と、もう一つ、農薬への疑問だった。「あの頃、牛舎に殺虫剤を撒くと、そのたびに一日中気分が悪かった。ある時、それが薬によるものだと気付き、こういうものを使っていていいのだろうかと思い始めていた」。


人の暮らしに資するべきか自然破壊を回避するべきか

 畜産から撤退した草野は、全く違う分野へ向かった。「狩猟をやっていたので銃砲店と付き合いがあった。その勧めで、発破のための資格・免許を取得した」。鉱山や採石場やさまざまな工事現場へ赴いて、火薬で山や岩石を爆砕する仕事を始めたのだ。最初は人に付いて仕事をしていたが、後に独立し、(有)草野爆砕という会社も設立した。

 爆砕の仕事では、全国のいろいろな場所へ行った。しかも、この作業は朝、他の作業の前にすることが多いため、一仕事終えると翌日まで自由時間がたっぷりできた。それで「行った先ではその土地ごとの圃場を見学したり、山の中もよく歩いた。また、本をたくさん読んだ」。

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