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人生・農業リセット再出発

墨国と交流発祥の地

1609年8月、スペイン領フィリピンから出航して太平洋をメキシコへ帰国するフィリピン総督ドン・ロドリゴの帆船が台風に遭って大破、黒潮に乗って漂流する。2カ月後の10月に房総半島の御宿に漂着、座礁して373名が夜中の海原へ投げ出された。月明かりもない寒さと怒涛が56名の命を暗黒の波間に沈めていった。
異邦人が田尻の浜に泳ぎ着いてくる深夜の大異変に、人口300人弱の大多喜藩領・岩和田村は半鐘が鳴り響き、大騒ぎとなる。恐怖と寒さに震える遭難者に村人は袢纏を脱いで着せ、意識を失っている男に女は裸になって素肌を密着させて温めた。貧しい漁民たちは、食料を惜しみなく持ち寄って37日間にわたる看病を続け、317名が奇跡の命拾いをした。藩主・本多忠朝は彼らを大多喜城に招いて歓待し、江戸城の2代将軍・徳川秀忠と会見させる。まだ実質的に実権を握っている家康にも会わせ、スペインの江戸湾入港許可と通商が成立する。
1年近く滞在し、大坂や京都も見物して『ドン・ロドリゴ日本見聞録』を書き残した。遭難の様子を記して「岩和田の貧しい村人たちは命の恩人と皆が感謝している。一方、船長の報告では、誰かが50万ペソの積荷を没収し、将軍命令で遭難35日後になって返還されたが大部分が盗まれてしまった」。難破で積荷が海底に沈んだのかもしれないし、解釈が難しいところだ。沈没の危険が迫れば積荷は海に投げ捨てても罪に問われない“荷打ち”の掟があり、破船で放棄された積荷を拾うことは海賊行為どころか、地元民にすれば貴重な海の恵みと受け取るのが慣習だった。遭難のたびに無報酬で救助に駆り出される地元民にとって、海の恵みはその暗黙の報酬とも言えた……そんな事情も重なったのかもしれない。

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