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【亜麻物語】
亜麻工場の盛衰
- 農学博士 村井信仁
- 第7回 2017年08月02日
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亜麻産業は軍需産業と言われるだけに動乱によって需要は大きく変動する。景気がよくなると新しい工場が進出し、不景気になると経営能力に欠ける工場は、新設工場に限らず、老舗といえども倒産、あるいは合併を余儀なくされている。亜麻工場の経歴を羅列してみよう。
一般産業には見られない凄まじい変動である。図1は亜麻工場の分布図である。全道隈なく分布している。建設された工場は85を数えるが、第二次大戦後、化学合成繊維が発達して、次第に圧迫される。例えば、身近なものとしてブルーシートなどは、亜麻繊維で作られた帆布には耐久性で劣るとしても、安価であり、手軽に入手できるようになれば、亜麻製品にはとても勝ち目はない。ロープや結束紐などについても同様である。亜麻産業は次第に縮少の止むなきに至る。
昭和32年(1957)には亜麻工場は23である(図2)。亜麻栽培は昭和42年(1967)で栽培を打ち切られるが、昭和40年(1965)まで稼働した工場はわずか14に過ぎない。図3、4は亜麻工場の消長を示したものである。図5には茎生産量と工場数の関係を示した。
ピークは第一次大戦後の大正11~13年(1924)、第二次大戦中の昭和18~20年(1945)の2つである。第一次大戦中から菜豆やバレイショ澱粉が高値で輸出され、北海道農業は景気に沸き立つが、この時期にヨーロッパからの亜麻製品の輸入が途絶したために、製麻業界はそのぶん国内生産しなければならず、生産拡大に取り組まなければならなかった。未曾有の好況の到来ではあったが、それにしても新会社や工場の乱立は異常である。原料争奪戦が語り草になっているが、熱しやすく、冷めやすいというのはこうしたことを指すのであろう。その後の景気の反動、金融恐慌もあって整理を余儀なくされる。
昭和32年(1957)には亜麻工場は23である(図2)。亜麻栽培は昭和42年(1967)で栽培を打ち切られるが、昭和40年(1965)まで稼働した工場はわずか14に過ぎない。図3、4は亜麻工場の消長を示したものである。図5には茎生産量と工場数の関係を示した。
ピークは第一次大戦後の大正11~13年(1924)、第二次大戦中の昭和18~20年(1945)の2つである。第一次大戦中から菜豆やバレイショ澱粉が高値で輸出され、北海道農業は景気に沸き立つが、この時期にヨーロッパからの亜麻製品の輸入が途絶したために、製麻業界はそのぶん国内生産しなければならず、生産拡大に取り組まなければならなかった。未曾有の好況の到来ではあったが、それにしても新会社や工場の乱立は異常である。原料争奪戦が語り草になっているが、熱しやすく、冷めやすいというのはこうしたことを指すのであろう。その後の景気の反動、金融恐慌もあって整理を余儀なくされる。
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村井信仁
農学博士
1932年福島県生まれ。55年帯広畜産大学卒。山田トンボ農機(株)、北農機(株)を経て、67年道立中央農業試験場農業機械科長、71年道立十勝農業試験場農業機械科長、85年道立中央農業試験場農業機械部長。89年(社)北海道農業機械工業会専務理事、2000年退任。現在、村井農場経営。著書に『耕うん機械と土作りの科学』など。
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