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新・農業経営者ルポ

再建と躍進、すべては社員の力です。

 夫婦として初めて農業に取り組んだこの年、文旦は不作だった。農協に出荷したところで、市場で買い叩かれるのは目に見えている。そう考えた謙二と生美は、苦肉の選択をする。文旦を軽トラックに積み、宿毛市内を引き売りして回る事にしたのだ。品質の高い文旦とは言えないものの、お客さんは喜んでくれた。2人はそれが素直に嬉しかった。これが、現在、全国に約1万4000人の顧客を抱える大串農園の始まりである。

 翌年、謙二は農協出荷を止め、すべてを自分で売ると決断する。当然、農協からは出荷するようにとの要請があった。個人販売を止めさせようと周囲から忠告された。それは農協員を含めて、農家が自分で販売することなどできるわけがないと考えていたからだ。だが、2人は躊躇しなかった。謙二には漠然とした自信があり、生美は商売の面白さを感じ始めていた。

 地元での引き売りだけでなく、ゆうパックを利用した通販も始めた。静岡で商売をしている謙二の姉の家族にも助けられた。そうして販路を広げると、注文が殺到して想像以上の売れ行きになった。自分たちで生産した文旦だけでは注文をまかないきれず、翌年からはほかの農家からも仕入れて販売するようになった。農協出荷の倍の値段で売れる産直販売は大いに儲かり、結婚した直後に建てた家の借金を3年で返済できるほどだった。

 やがて儲けの大半は、仕入れて販売するブローカーとしての利益が占めるようになる。謙二には、そうした商品には生産者として責任が持てないという後ろめたさはあったが、その旨みを捨てることはできなかった。顧客への責任を知る本物の商売人としてのブローカーであれば、生産者を指導するという配慮もあっただろうが、それができる謙二ではなかった。

 そうして事業を続けるうちに顧客からのクレームが増えていく。生美にとっては苦悩の日々の始まりである。生美は、お客さんの「ありがとう」という言葉に励まされ、それを裏切らない仕事をしたいと思い続けいた。だが、事業の拡大を目指す謙二は、生美の言葉は理解しても、事業規模を縮小しようとは考えなかった。ただ、謙二自身、自ら作ったものでなくては責任が取れない、誇れるもの、ありがとうと言われるものを作りたいという思いはあった。

 ブローカーとしての儲けを元手に、93年に山林を購入、そこを造成して翌年、文旦、デコポン、小夏を植えた。97年にも新規に林地を借り受けて園地造成を進めた。99年には基盤整備されてはいるが耕作放棄されていた国営の農地を借り、文旦栽培を始めた。今では、園地の総面積は23haを超えている。この間の96年に、念願だった㈲大串農園を設立した。

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