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新・農業経営者ルポ

なるべくしてなったわらしべ長者

本誌では先月号まで亜麻に関する連載を取り上げた。歴史に葬り去られたはずのこの品目だが、じつは商品化とともに栽培が復活していた。健康食品として末端商品があり、それを栽培する第一人者になったのが今回の主人公、(有)大塚農場(北海道当別町)の大塚慎太郎(36)だ。それだけではない。父が志向した有機栽培を特別栽培に切り替え、多量多品目路線を実現してみせた。そこには契約を求める企業人が果てることなく訪れている。 文/永井佳史、写真(4ページ以外)/(有)大塚農場

消えた亜麻の生産を復活

それは2000年のことだった。見ず知らずの青年が突然現れ、とある作物の名を出して栽培を求めてきた。応対したのは大塚と社長で父の利明、そしてたまたま居合わせた祖母の3人だった。話を聞くなり、当時80歳前後の祖母が表情を一変させるとともに声を荒げる。
「んなもんやってられんよ!」
祖母をしてそう言わしめた作物とは亜麻だった。明治時代から昭和初期にかけ、北海道中に工場があった。ここ当別も例外ではない。説明では健康食品として食用油やサプリメントなどを作りたいということだったが、栽培方法は変わらないだろう。祖母は若かりしころ、創業者の亡き祖父と一緒に亜麻を生産していた。そのときの苦労が記憶の片隅に残っていたため、大反対したのだった。
青年は大塚農場を訪問するまでの20軒すべてで断られていた。大塚も利明も厄介な人が来たと思いつつ、可哀想だからちょっと土地を貸して作らせてみるかと彼の依頼を引き受けることにする。ところが、青年らによる栽培はうまく行かない。見かねた大塚が試験に参画すると6年がかりで栽培体系を固め、いまでは町内の5軒が生産するようになっている。
「儲けようとか、地域振興で始めたわけではないんです。大塚家の気質なのかわからないですけど、僕も父さんもどっちかというと困った人を放っておけないところがあります。歴史から消え去った作物を復活させる機会なんてそうそうないので、やってみようという気持ちがお互いにありました」
出荷先が徐々に売り上げを伸ばす一方で、栽培を復活させた第一人者である大塚農場も脚光を浴びることになる。
亜麻はラベンダーより薄い紫色の花を咲かせる。だが、一度開いた花びらは風に吹かれて昼には散ってしまう。幻ともいえるこのはかない景色をカメラマンが放っておくわけはなかった。北海道新聞の一面を飾るとその勢いは増し、シーズン中に1000台くらいの車が圃場へ横付けされることがあったという。

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