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新・農業経営者ルポ

比内地鶏の歴史を創ってきた家族

 秋田高原フードでは、かつては放し飼いも行なってきた。しかし、地面の上で直接糞に触れること、そうした飼育期間が約半年にも及ぶことから、病気に感染するリスクが高いという問題があった。それではサルファ剤などの使用も避けられず、薬剤依存が高まるし、食味も劣ってしまう。さらに鳥インフルエンザが世界的流行となっている状況を踏まえ、同社では2004年から防疫強化のために放し飼いを止め、全面的にケージ飼いに切り替えたのである。

 そうした同社の懸念は、県内の養鶏業者にとって現実の脅威になりつつある。今年4月、十和田湖畔で鳥インフルエンザに感染した白鳥の死骸が見つかったのだ。

 筆者も放し飼いの鶏舎を見て回ったが、多くは魚網で囲っているだけ。小さな野鳥なら自由に出入りできるし、もしウイルスを保有する鴨が上空で糞をしたら、飼育場は簡単に鳥インフルエンザに汚染されると思われた。一方、秋田高原フードの鶏舎は、鳥や動物の進入を防ぐ対策が徹底的に施されている。しかも信子は、車の中から見て回ることしか筆者に許さなかった。それはあるべき正しい対応である。

 もし県が比内地鶏のブランドを守ろうとしているなら、生産者に「放し飼い」を止めさせ、鶏舎への野鳥や小動物の侵入を徹底して防ぐ指導を行なうべきである。小さなエリアに限られた比内地鶏生産地域で、一羽でも感染が判明すれば、地域のすべての鶏が影響を受ける。もしそんなことが起きたら、ブランドどころか比内地鶏そのものが絶えてしまうではないか。


比内地鶏と共に歩んだ佐藤一族の歴史

 秋田高原フードが、人々の「地鶏」に対するイメージを承知の上でも、放し飼いを止めてすべてケージ飼いに転換したことを、信子は「それが養鶏家の責任だと思うから」と話す。それは現代の食にかかわる事業経営者としては、当然の考え方である。比内地鶏を慈しみ、秋田が誇る食文化として育ててきた家業への誇りが、そう言わしめるのだろう。

 黎明舎種鶏場の創業者である故・佐藤広一は、子供時代から鶏に魅せられた人物だった。広一は1923年に東京一の種鶏場であった黎明舎種鶏場に入門し、鶏に対しての造詣を深めた。終戦近い頃秋田に戻り、後に同名の黎明舎種鶏場を設立。その一方で、比内鶏をはじめとする日本鶏の探索をライフワークとした。

 広一の6人の子供たちは皆、養鶏にかかわる仕事を継いだ。次男の伸哉は広一の蒐集した日本鶏の系統保存に尽力し、やがて比内地鶏の種鶏生産者として高い評価を得ることになる。三男の黎明は採卵鶏と比内地鶏の育成をしていたが、99年に自前の食鳥処理場を持つ生産法人として、(有)秋田高原フードを設立。生前の広一は、生産は農家に任せるべきだという考えで、成鶏まで育てることを家族に許さなかった。しかし、飼養管理次第で食味が変わる比内地鶏の品質を確実なものとするため、彼の子供たちは自ら成鶏の生産に取り組む必要を感じた。その任務を引き受けたのが黎明だった。放し飼いからケージ飼いへの全面転換も、自社の食鳥処理場をHACCP対応の設備にしたのもそのためだ。

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