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新・農業経営者ルポ

“しがらみ”を越えて農と食を結ぶ

  • (株)ファーマーズ・フォレスト 代表取締役社長 松本謙
  • 第67回 2009年12月01日

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宇都宮市の第三セクターの開発事業として、13年前に152億円を投じて開設された宇都宮市農林公園「ろまんちっく村」。ここには、地元の農産物の直売所だけでなく、地ビールの製造工場、レストラン、温泉施設や宿泊施設も備えられている。しかし、業績は次第に頭打ちとなり経営状態は悪化していったため、05年に宇都宮市は指定管理者制度の導入に踏み切り事業者を公募。そこに名乗りを上げた8事業者の中から選ばれたのが松本謙だった。07年に株式会社ファーマーズ・フォレストを設立し、地元生産者たちにとっては破天荒とも見える改革に着手。1年目の08年度で、年間入場者数は対前年度比12万人増の100万人を達成し、営業売上は9億円を突破。更なる高みを目指している。

 宇都宮の市街地から車で30分。のどかな田園地帯を抜けると、東京ドーム10個分、約46haの広さを誇る宇都宮市農林公園「ろまんちっく村」が現れる。手付かずの状態で保存されている2つの里山「こんこんの森」と「もくもくの森」の間には、東西2つの森をつなぐように小川が流れ、その途中に散策路も備された「みのりの森」が位置している。この一帯は、日本各地に残る典型的な里山の風景だ。

 落葉に埋もれた径からは、葉の落ちた梢越しに各施設がチラッ、チラッと目に入る。森を囲むようにして、3haの農地と1haのクラインガルデン(体験農園)、そして17haの各商業施設が配置されている近代的な観光公園が融合している。地図を片手に歩かなければ迷子になってしまいそうなほどだ。

 「今にしてみると、怖いもの知らずで突っ走ってきたと思いますが、生産と消費の現場をつなぐ仕事を、農業と食をテーマにして実現したいという夢はずっと持ち続けていました。ようやく、本当にやりたい現場と出逢えました」

 松本謙は広大な敷地を歩きながら、この地によそ者として入ってどうやって改革を進めたのか、また、それ以前に、経験してきたビジネスの世界の何が役立ったのかについて話してくれた。


有言実行で突っ走る

 松本には農家として生産に携わった経験はない。農業とは関係のない会社員の時代に身につけた“松本流の仕事術”が、今も活かされているという。

 長野県で会社員の家庭に育った松本は、慶応義塾大学を卒業後、日産自動車に入社した。当時は、ちょうどバブル経済の真っ只中だった。消費者の生の声を聞き、商品の魅力を世の中に伝えたいと、広報の仕事を希望していたが、配属されたのは新車の生産管理の現場だった。工場の中に閉じこもるようにして業務をこなす毎日が続くうちに、そこから抜け出したくなる衝動に駆られるようになったという。思い立ったらすぐに突っ走るのが松本の性分。消費者との接点を感じたいと、なんとか上司を説き伏せて、自ら営業部門への異動を希望した。数年後、念願かなってようやく配属された先は、当時、軍隊的な厳しい労務管理で有名だった埼玉県のある営業拠点だった。焼肉屋で開かれた歓迎会の席で、次々と運ばれてくる肉の皿を前に座っていると、18歳の先輩社員にポツリとこう言われたという。

 「新人のあなたが焼くんですよ」

 あわてて焼肉奉行の役を買って出た松本は当時25歳。翌日から、ノルマに負われながら夜9時まで飛び込み訪問をする若い先輩たちを見て愕然とする。報告のための数あわせで車の査定をさせてもらうなど、売り上げ実績に繋がらない業務を夜遅くまでする毎日。いったい何の意味があるのかと、疑問を感じたのだ。

 「旧態依然とした精神論は時代遅れだと思います。自分のやり方で仕事をさせてください」

 そう上司に告げて、夕方6時には一人で退社することにした。目を付けられた松本は、ラジオ体操の仕方についてさえ事細かに文句を言われるようになった。もう後には引けない。負けず嫌いで人一倍の努力家でもある松本は、結局、人には知られないように、夜遅くまで現場営業をするようになった。2年間がむしゃらに働いた結果、営業成績はトップに。社長賞を受賞する。すると、周囲の同僚はようやく彼を認めるようになった。しかし、上司とは最後まで心を通わせる事はできなかった。

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