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新・農業経営者ルポ

お金も稼げる有機農業をめざして

有機農業の里として知られる埼玉県の小川町で農業生産法人 風の丘ファームを営む田下隆一は、非農家出身。1984年から農薬も化学肥料も使わない有機農法を行い、いまでは年間70品目の野菜や加工品を独自のルートで販売している。「有機農業では食べられない」という現実を変えるべく、有機農業の技術の研究と普及と農業後継者の育成に力を入れ、おいしくて、やりがいがあり、経営の成り立つ有機農業のあり方を模索している。 取材・文/田中真知 撮影/長谷川竜生

 小川町は、有機農業の盛んな地として知られる埼玉県中部の町だ。とはいえ駅前に「有機農業の里」という看板があるわけでも、水田が広がるような風景がつづいているわけでもなく、住宅街の間に里山がなだらかな起伏を見せ、その間をぬって田畑がつくられているような土地柄である。田下の風の丘ファームも、そんな里山の山間にある。

 自宅のある土地と、その周囲に借りた農地が4ha。そこで田下は無農薬の有機栽培で、コメ、麦、および70品目に及ぶ野菜をつくっている。販売は独自に開拓した一般消費者やレストラン向けのルートのほか、小川町有機農業生産グループの販売部からの共同出荷を行っている。

 こだわりをもった有機農家が集まる小川町でも、バイオガスプラント、天敵やバンカープランツの活用、踏み込み温床など、さまざまな創意工夫と技術的努力、後継者の育成や、就農から独立、経営にあたっての情報提供を惜しまない田下のもとには、全国から有機農業に関心のある農家や、農業を志す若者が集まる。

 「有機農業をやっている人の中には、通常の慣行栽培はよくないという考え方があると思います。でも、私は有機農業がいい、慣行栽培が悪いという議論は意味がないと思っています。どちらもつまるところ目標は同じです。大切なことは、おいしいものをつくって、それでこの国が豊かに食べていけるかどうかだと思うんです」


自分の手で暮らしをつくる生き方を

 東京生まれの田下は農家の生まれではない。両親はコック。親類にも友人にも農家は一人もいなかった。その彼が農業を志したのは、高校時代に憧れた北海道がきっかけだった。あの広々とした土地で仕事がしたい。そう考えた田下は、大学の農学部を受験するも失敗。それならば飛び込んでしまえと釧路の農協に電話して、酪農家を紹介してもらい、北海道の牧場で研修生として働くことになる。

 研修生活はきつかったが楽しかった。ここで牧場経営ができればと思ったが、それには牛や土地、機械など莫大な初期投資がかかる。結局、酪農家になる夢をあきらめて1年半後、東京に戻ってくる。

 帰京した田下は叔父が経営する機械の輸入販売会社に就職した。便利な東京暮らしは楽しかったが、やがて物足りなさを感じてきた。やっぱり自分は、物を動かすのではなく、物をつくるところで仕事がしたい。いったんはあきらめかけた農業への思いが、再び甦ってきた。

 田下が有機農業に惹かれたのは、農家の生まれではなかったせいもある。農薬の害がいわれていた時代であり、自分も仕事中に、農薬や化学肥料を浴びたくないという思いがあった。同時に、お金を出して農薬や化学肥料を買うのではなく、家畜を飼い、その糞尿をつかって堆肥をつくって、それで作物を育てるという自然の循環の中で、生活をつくっていく農業の形に魅せられた。

 田下は有機農業の研究会に参加するかたわら、就農のための土地を探して各地をまわる。しかし、今とちがい新規就農者のための情報はほとんどなかった。やっと埼玉県の小川町で有機農業を実践していた金子美登氏のところで研修を始めることになり、会社を辞めた。金子氏の下には多くの研修生がいたが、農家出身でない研修生は初めてだった。

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