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編集長インタビュー

ともに実感しよう、ウクライナの大地で“メード・バイ・ジャパニーズ”の可能性を


チェルノーゼムの大地で農業をしたかっただけだった

昆吉則(本誌編集長) 当社では来る8月に「木村愼一と行くウクライナツアー」を実施いたします。農業経営者の仲間はもちろん、農業周辺で事業をなさっている方、投資家の方々と一緒にウクライナを訪れ、ガイド役を木村さんが務めやってます。それで今回は、宣伝も兼ねまして木村さんに登場していたくことになりました。よろしくお願いいたします。まず、新しい読者の方はご存じないかもしれませんので、あらためて木村さんがウクライナに進出されたきっかけをお聞かせください。

木村愼一(キムラ・アグリカルチャー・トレーディング) ウクライナである日本人が農業をやりたいので農業指導してもらいたいということで、私に声が掛かったのが最初ですね。でも畑を見て惚れ込んでしまった。いわゆるチェルノーゼムで、とにかく感動して、ぜひこの場所で私の農業をやりたいと思ったんです。私ももう60歳になりますから、今までのこのノウハウをすべて注ぎ込んで、理想の農業をやりたくなったんです。

昆 最初にウクライナに行ったのがいつですか?

木村 2007年ですね。30坪ぐらいのダーチャ(編集部註・ロシア語で家庭菜園)を借りて、大豆播きましたけども、まぁさすがチェルノーゼム。無肥料だったけれども、私の背丈よりも伸びてしまいまして。「ジャックと豆の木」みたいに蔓化して、天気さえ良ければなんぼでも伸びましたし、実が全然一粒も成りませんでしたね。そんなものだから、まざまざと土壌の良さを知り、怖さも知ったという感じでしたね。

昆 穀物価格が上昇したこともあって、約束していた農地が借りられなくなってしまった。

木村 「300ha、お前にやるから好きなようにやれよ」なんて言われたけど、春になったら、「3haしか貸せないよ」と。私は、ただこの場所で農業やりたいだけだったんですけど、穀物高騰の背景があって、ウクライナに世界中の企業が群がって土地の収奪をしていたわけです。

昆 その話を聞いたある商社マンが「きちっとした契約もしないでやるのはバカじゃないのか?」「あんなカントリーリスクのある国でやるというのは考えられない」と言った。私は「バカ野郎、ふざけんじゃねえ」と思ったわけですよ。だけど、木村さんはいつものペースで「ウクライナだろうが青森だろうが、土地借りるって、そんな簡単なものじゃないよ。国とか、何とかじゃなくて、それは農民だったら当たり前にわかっていることで、そういう中で人間関係作っていくんだよ」って、ガハハって笑いとばしたんですよね。その商社マンに「お前、こんな日本の宝みたいなやつがいるってことに気付かないのか! お前は勉強できるかもしれないけれど、こいつ津軽弁しか話せないのに、未来を作ってる……こういうバカが、日本や日本の農業を変えていくんだ!」っていう話をしたのを覚えています。

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