ナビゲーションを飛ばす



記事閲覧

  • このエントリーをはてなブックマークに追加はてな
  • mixiチェック

新・農業経営者ルポ

大規模経営を通して、地域と世代間の共生を図る

農水省の統計によると、わが国の主業農家の経営面積の平均は2.9ha、北海道で25.9haとされている。それに対し、青森県五所川原市の(有)豊心ファームは、家族経営をベースとした7人のスタッフという少人数でありながら、延べ経営面積は245haにものぼる。代表取締役の境谷博顕の父が昭和20年代、この地で農業を始めた当時の水田面積は2.4haだった。農作業の受託と大型農業機械の積極的導入などに支えられたその大規模経営の秘密を探る。取材・文/田中真知 撮影/土井学

 青森市から奥羽山脈北端の山並みを超えて津軽平野に入ると、一気に視界が開ける。青々とした水田がどこまでも広がる中、西の方角には岩木山が優美な姿を見せている。(有)豊心ファームもまた、その岩木山を望む津軽平野の一角にある。

 まるで北海道の農業のような大型機械を駆使し、大規模経営を進める豊心ファーム。その先進的な経営は早くから衆目を集めるところとなり、2010年7月には、第59回全国農業コンクールにおいてグランプリである毎日農業大賞を受賞した。高い評価を得たのは、その規模拡大と効率化の実現のための、様々な工夫や取り組みである。

 代表取締役の境谷博顕は自分の保有する水稲33ha、大豆45ha、麦6haのほか、高齢化の進んだ周辺集落の作業受託を引き受け、その管理面積は麦と大豆を中心に延べ245haにも及ぶ。これは米国の農家一戸あたりの経営面積(178ha)を上回る経営規模である。

 しかし、境谷の狙いは、単なる経営規模の拡大だけではない。高齢化の進んだ周辺集落では耕作放棄地が増え、地域農業の弱体化がますます進んでいる。境谷は細かく点在する、そうした農地を団地化して作業の効率化を進めた。それはつまるところ地域農業を活性化するための取り組みであり、そこが今回のコンクールでも高く評価されたのだった。


子ども時代に養われた経営者としての感覚

 境谷の父が昭和20年代にこの地で農業を始めた頃、水田面積は2.4haにすぎなかった。長い冬をひかえた雪国では、農作業が終わればなるべく早く出稼ぎに行くというのが、ほとんどの農家の常識だった。ところが境谷の父は出稼ぎには行かず、農業一本でやっていくという毅然とした意志を貫いた。そのために農地を購入して面積の拡大に取り組む父を見ながら境谷は育った。

 「父はとにかく働く人でした。でも、田植えが終わった時や、お盆には休みを取って、私を映画館へ連れていってくれました。必ず洋画で、さらにその帰りには寿司を食べさせてくれたんです。半世紀以上経った今でも、そのことは鮮明に覚えていますね」

 洋画好きの父は、農業についても周囲の農家とは違う感覚を持っていた。農作業といえば牛や馬を使うのが当たり前だった時代に、いち早く耕うん機やハーベスタ、コンバインを取り入れ、作業の省力化・効率化に取り組んでいた。また、農作業の合間に少年だった境谷に、様々な作物の知識や栽培方法を教えてくれた。それは思いがけないところで、境谷の就農への決意を促すことになった。

 「中学生の時、理科の先生が『田んぼのイネの花が咲いているのを見たことがある者はいるか』と質問したんです。その時に『はい』と答えられたのがクラスの中で私だけでした。『何時頃から開花するか知っているか』とも質問されたのですが、それも答えられた。同級生は全員農家だったにもかかわらず、みな知らないんです。その時先生に『おまえ、百姓をやればきっと成功するぞ』とほめられ、それがとても嬉しかったですね」

 境谷が高校に入ると、父は農作業の報酬として給料をくれるようになった。青色申告も近隣農家の中では、もっとも早くから行なっていた。そんな姿を見て、たとえ家族であっても金銭面をきっちりして経営の感覚を取り入れる父のやり方を、境谷少年は自然に身につけていった。


農業一本で食べていくため規模拡大路線へ

 1969年、高校卒業と同時に境谷は就農する。それから間もない頃、父は田んぼを購入する際、相手との交渉の場に境谷を連れていった。購入が決まると、境谷は500万円ほどの現金を持たされ、支払いの使いにやらされた。多額の現金を持たされて不安はなかったのだろうか。

関連記事

powered by weblio