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人生・農業リセット再出発

真相は藪の中、はたまた海の底か――

「なかなか話が面白いねえ」。私の大阪講演後にトイレで声をかけてきたのは、近畿日本鉄道の社長だった。伊勢神宮に寄るついでに、近鉄が経営する「志摩スペイン村」にも足を伸ばしてみたいと話すと、だったらあなたは大王崎の「思案地蔵」に興味が湧くと思うよ……となった。

「なかなか話が面白いねえ」。私の大阪講演後にトイレで声をかけてきたのは、近畿日本鉄道の社長だった。伊勢神宮に寄るついでに、近鉄が経営する「志摩スペイン村」にも足を伸ばしてみたいと話すと、だったらあなたは大王崎の「思案地蔵」に興味が湧くと思うよ……となった。
 伊勢湾と太平洋を分けるように突き出す志摩半島。その南端にある英虞湾は長い半島に抱かれた内海で、常にベタ凪の美しい海原が広がる。ところが湾の外側に位置する大王町波切の大王崎灯台に足を運ぶと、そこは別世界。白く砕ける波頭の荒波が眼下の断崖に打ち寄せる。“伊勢の神崎、国崎の鎧、波切大王がなけりゃよい”と、船乗りに恐れられ、ほかで座礁したら恥ずかしいが、波切なら仕方がないとされたほどの難所である。

 全国から江戸に集められる年貢米や消費財は、陸上輸送よりも大量に安価で運べる海運が使われた。山形の出羽米ですら、陸路ではなく日本海を西へ航行し、下関から瀬戸内海に回って、大坂経由で大王崎を目指す。そこから遠州灘を抜けて江戸にたどり着くコースであった。ただ当時は、海上から沿岸の形状や山を観察しながら自分の位置を推測する“地乗り航法”であり、風任せでしか帆船は動かせなかった。伊勢志摩から伊豆下田までの航路は富士山しか目印がなく、安全な天候が回復するまでの“日和待ち”として、天然の良港がある伊勢志摩は重要な存在であった。

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