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村を襲った大洪水の記憶
新潟県内でも決して条件がいいとはいえないこの地で専業農家の道を選んだ本間には、今でも鮮明に残っている子どもの頃の記憶がある。1967年、小学4年生の夏休みだった。8月26日から降り続いた小雨は、28日から雨足が強くなって集中豪雨となった。多くの犠牲者が出た羽越水害である。特に被害が甚大だったのが荒川流域だった。
「夜中の豪雨でした。わが家は2階まで浸水し、私たちは屋根裏部屋に避難していました。すると、遠くから濁流に流されていく人たちが助けを求める声が聞こえてきたんです」
荒川流域に民家が続く関川村では、死者・行方不明者合わせて34名、全壊・流出37世帯、半壊494世帯と、村全体の41%の世帯が大きな被害を被った。農地はもちろん、あらゆる村の施設や財産が失われた。被害総額は177億円。当時の村予算の60倍に膨れ上がった。
その後、村の復興に飛びまわる大工の父親の仕事を手伝い始め、高校生となった本間は大工を志すようになった。それと同時に、村を再生するためには何が一番大切なのだろうかという人生の模索も始まった。
羽越水害を契機にして、水害を防ぐために172億円を投じた大石ダムが78年に完成するが、その頃、本間は茨城県水戸市にいた。高校卒業後、鯉淵学園(現在の鯉淵学園農業栄養専門学校)に進学し、農業の基本を学ぶことにしたのである。
同学園を卒業すると、今度は九州と四国を自転車でめぐる旅に出た。愛媛では自然農法を実践する福岡正信氏のもとに飛び込み、実習を通して農業の奥深さを学んだ。その一方で、村に戻ってみると水害の後遺症が未だに残っていることを知り、自治会活動にのめり込むことになる。
「水害から20年以上も経っているのに復活しない村の夏祭りを再興しようと、青年団や消防団の仕事に没頭するようになりました」
そして妻の淳子と24歳で結婚。地元の製材会社に勤めながら、淳子や仲間と村再興の活動を続けた。
その仲間たちの頑張りで実現したのが、88年から恒例行事となった「えちごせきかわ大したもん蛇まつり」である。大蛇は、54集落で各部分を分担して製作された。羽越大水害発生日(8月28日)にちなみ、長さは82.8mで、ギネスブックにも登録された。ようやく元気を取り戻した関川村は、その後、県内で初めて合併しない方針を打ち出した。
手探りの中でのユリ栽培自由競争に活路を見出す
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本間茂雄 ホンマシゲオ
岩船地域農業生産組織連絡協議会
会長
1957年、新潟県関川村生まれ。地元高校を卒業後、茨城県水戸市の鯉淵学園(現鯉淵学園農業栄養専門学校)に進学。その後、自転車旅行をしながら有機栽培農家を訪ね歩く。帰郷後、24歳で製材所に就職すると同時に結婚。1997年、16年間務めた製材所を退職して専業農家になる。2年前より長男・健太郎(27歳)が就農。10haの圃場のうち、水田8haで特別栽培米を、残りの2haでユリ切花や山菜などを生産する。ユリの年間売上は2,800万円を超える。あらかわ切花部会長。
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