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新・農業経営者ルポ

いまここで自分が、農業を続ける理由。

人生は思い通りにいかない。それでもそこでなにかを成し遂げる人は、挫折や矛盾を前にしても、決してあきらめなかった人ではないか。群馬県前橋市は利根川水系の恵まれた水利を活かして、古くから米麦と養蚕を基幹とする農業が営まれてきた。この地で(有)ヤバタファームを経営する矢端幹男さんは農業で食べていくことにこだわり、農場の多角経営化・効率化・高付加価値化に取り組みながら、地域への目配りを両立している経営者だった。取材・文/長谷川竜生 撮影/野田孝

 「前橋の駅までヨソんちの土地を通らずに行けたっていうもんね」

 このあたりで昔の大地主の話をするときは、そんな言いまわしをする。矢端さんの本家も、そんなふうに語られる地主の一人だったらしい。

 「僕の本家、ヤバタは大地主のように言われるけど、実はそんなにでっかい地主ではなかった。でも自作農だったから俵数も多いし、金まわりがよくみえたんだろうね」

地主といってもいろいろあるが、小作人に土地を貸して地代を徴収するだけの、いわゆる寄生地主ではなく、みずから自作農として営農していた耕作地主であったことに、矢端さんは強い誇りがあるようだ。
 「爺さんのころは前橋の地主の仲間で蚕のタネを売る会社を作って、繭を農家から買って、高くなったら売る商売もしていた。それだけちからがあったということだね」

 その後、農地改革で地主は消え、繊維産業は衰えた。その会社も役割を終えたのだろう。今はその跡地にホームセンターが建っている。


コメ政府買入価格の絶頂期に就農

 「いい時代だったよ、戻りてぇよ」

 ご自宅の応接間で就農した頃の話をしながら、そんな冗談がぽろりとこぼれた。茶目っぽく笑っているが、ちょっと本音も混じっているのか。ひとまわり年下の筆者には、話で聞くしかない食管法時代の話である。9月になったとはいえ今年は残暑が厳しい。奥様が出してくれた麦茶の氷がとけて結露している。

 「この辺は政府米のところだから、今では考えられないけど1俵1万6000円以上が必ず入ってきた。政府米の場合はちょうど今ごろ、収穫前の8月の終わりには6割を先に貰えるんだよ。100俵を供出する計画なら1俵1万円として100万円が国から振り込まれていたわけだ」

 それで「いい時代だったよ」というわけだ。矢端さんは59年生まれで、この年代では珍しい大卒の農家だ。東京農業大学では農業経済を専攻して卒業後には青年海外協力隊に参加、2年6カ月間マレーシアで農業改良普及員をした経歴もある。帰国して実家で就農したのは84年だ。まさにコメの政府買入価格が「いい時代」だった絶頂期から経営を始めた。


群馬県のコメなんか胃袋に入っちゃいなかった

 ひとまず「いい時代」だったと言いながら、本当に戻りたいのかというと、やはりそうでもないらしい。それは誰もが子供の頃の記憶は大切にしたいが、戻りたいとは思わないようなものかもしれない。

 「だってどんなコメでも買うんだ。食管法ってのは、そういう法律だ。僕たちは別に、そのコメがどこに行こうと、かまうことはなかった」

 約20年前、群馬県の農協青年部の副委員長だったころの話。農協中央会の会議に出たら、その最中に職員が寄ってきて、これが今年のコメの在庫率ですとメモを渡された。90%と書いてあった。そして更にその前年の在庫率も80%近くあった。

 「国民の胃袋に入っちゃいなかったんだ、群馬県のコメなんか。最終的には潰して、エサなんかにして処分してたんだろうけど。あの頃はただ作ってりゃよかったんだよ」

 ただ作ってりゃいい、という人々の意識を象徴するエピソードがある。やはり約20年前、市役所の農政課が音頭をとってバス1台を仕立て、食糧事務所や普及所、農家や農業委員を引き連れて、前橋からコメを持参して東京に行った。そのコメを穀物検定協会で検査してもらったら、そこの職員に怒られたそうだ。

 「冬場にライスセンターに転がっているようなコメを持っていった。群馬県の冬場だよ。北風が吹いて乾燥してどうにもならないようなコメを、わざわざ持っていった。食味計にのせたら“過乾燥”でエラーが出たっていうんで怒られたんだな」

 市役所の担当者はコメの品質への意識を喚起したかったのだろうか。矢端さんが今考えても当時は小学生レベルのコメ作りだった。

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