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新・農業経営者ルポ

苛烈な農地改革を経験しても失わなかった干拓農民の誇り

日本は間もなく農業開国を迎えることもあり、これからの農業経営者にはグローバルな視点が求められてくるだろう。本誌ではこれまで以上に海外の農業および農業経営者の情報を提供していく。今回「新・農業経営者ルポ」で取り上げるのは発展著しいインドの稲作経営者。農民が農業経営者に生まれ変わろうとする息吹がそこにはあった――。撮影・取材・文/井生 明

穀倉地帯を干拓した農民の系譜に生まれて

 ジョセフは干拓農民の子孫である。19世紀の初めに曽祖父・チャンダが、約30km離れたコターヤムという町から広漠たるヴェンバナード湖を舟で渡り、ジョセフが生まれ育った、インド南西部のケーララ州クッタナードにやってきたという。クッタナードは湖や川、運河・水路が入り混じる水郷地帯で、世界でも数少ない、海抜下で農業が営まれる場所。南国らしく水にあふれた風光明媚な景色を求めて海外からも旅行者が訪れる観光地でもある。

 「その当時は1km四方に一家族しか住まないような閑散とした場所で、道もなく移動は小舟。住民は主に漁労で生計を立てていたそうです。曽祖父は盗賊もよく出ていたというこの地を人力のみで干拓し、より良い生活を求めて農業を始めたのです」と誇らしげにジョセフは言う。

 山がちなケーララ州では、稲作に適した土地はクッタナード以外にはさほど多くない。多くの農民が苦労を重ねヴェンバナード湖の5分の1近い面積を干拓し農地に転換して以降、クッタナードは「ケーララ州の穀倉庫」と呼ばれるまでになった。

 ジョセフの祖父・マータンは、時には盗賊に襲われながらも不屈の精神をもって水にあふれた土地を農地へと変え、今もジョセフ一家が住む家を建て、子供たちにはしっかりとした教育を与えようと血のにじむような努力を重ねた。祖父のお陰でジョセフの父・コラは1920年、当時の農家としては珍しく大学に通う。法律を修めるため学生時代を南インド一の大都市マドラスで過ごしたコラは、インド独立前の高揚した空気に触れる。卒業後地元に戻ると、農場経営をしながらも弁護士として働き、政治運動へと突き進みインド独立運動に加わった。トラヴァンコール王国(現在のケーララ州)の国会議員にもなり、その後は2期10年に亘り農業大臣を務め、農民の貧困改善に尽力。インド独立後、ネルー首相がクッタナードを視察に訪れた際に、自らの祖父がたどったようにコターヤムから舟で当地を案内し、農民の窮状を訴えたという。

 クッタナードを東西に貫く道路の建設、電力の供給開始、肥料に対する補助金交付などは全てコラの業績である。だが、当時の政治家は清廉潔白。コラも私腹を肥やすことなく、大臣を務めたとはいえ、さしたる財産があったわけでもなかった。55年に政界から身を引いた後、しばらくは農場に立つが健康状態が悪化したため次世代へと経営のバトンを渡した。


ジョセフの就農と農地改革そして集落の崩壊

 69年、ジョセフは27歳で就農。兄二人が米国に留学するなか近隣の大学で商業を学んでいた三男のジョセフに跡継ぎとして白羽の矢があたった。

 「男兄弟の中では一番私が穏やかな性格なので雇っている農業労働者ともうまくやっていけると父は思ったのでしょう。農業に興味はあったので、跡を継げと言われても特に驚きませんでした。それよりも受け継いだ農場を発展させなければという責任感で胸がいっぱいでした」

 だが就農後2年で父のコラが他界。農業の技術的な部分を十分に教わる間もなく、手探りでのスタートとなった。容赦ない時代の流れはこの後、数十年に亘りジョセフを翻弄する。

 ここでインドの農業政策に触れておきたい。インドは47年に英国から独立して以降、農業生産の拡大、貧困問題の解消、所得と冨の不均衡の是正が検討された。そして農地改革は社会正義実現のための制度改革として位置づけられてきた。

 ジョセフが就農直後の70年初頭から苛烈な農地改革が始まった。その内容は、農地所有上限が設定され、上限を超えた農地は余剰地とし接収され、農村の社会・経済的弱者に分配するというものである。先祖代々干拓してきたジョセフ家の農地60haも半分の30haになった。

 海抜下のクッタナードでは雨季には農地全体がどっぷりと水に浸かる。そのため農期の始まりはまず農地に堤防を築き、たまった水を排出しなければならない。それ以外にも害虫の一斉防除など共同体で一丸となっての共同作業が不可欠だった。だが農地改革で一般の農業労働者が土地を持つことにより、この共同作業が成り立たなくなってしまう。農地改革は、皮肉にも共同体内の農作業の構造を破壊してしまった。

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