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【編集長インタビュー】
リンゴのピンクレディーに学ぶ 農産物の知的財産権管理
- (有)安曇野ファミリー農産代表取締役 企業組合日本ピンクレディー協会代表理事 中村隆宣
- 第78回 2011年02月01日
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米国研修で農業の可能性に開眼自由な発想で自分らしい農業を
昆吉則(本誌編集長) 中村さんはオーストラリアで育種された「ピンクレディー」というリンゴを長野県の農場で栽培しながら、その商標管理などを行なう日本ピンクレディー協会の代表理事も務めていらっしゃいます。今日は、農産物の知的財産権を守ると同時に、国際的な販売戦略を図る「クラブ制のリンゴ作り」についてお話をうかがいたいと思いますが、まずは中村さんの農業経営の歩みを教えていただけますか。
中村隆宣((有)安曇野ファミリー農産代表取締役・日本ピンクレディー協会代表理事) うちの父は分家出身で、もともと農協に勤めており、リンゴ園にしても当初は母が一人でやるくらいの規模。正直、農業は未来のある仕事とは思っていなかったし、自分が農業をやるなんて考えてもいませんでした。
昆 それがどうして東京農業大学に進学することになったのですか?
中村 両親が農学部以外はカネを出さないって言うから(笑)。私も遊びたかったから仕方なくですよ。ただ、子供の頃からどういう形であれ海外で生活してみたいと思っていたので、在学中の1980~1981年に農業研修で米国のオレゴンに滞在しました。
昆 研修先はリンゴ農家だったのですか?
中村 リンゴもありましたが、オレゴンは洋ナシの方が多いんです。リンゴはわずかでした。でも、その時の体験が自分にとって大きな転機になりました。日系3世が経営する農場にいたのですが、そこで一年過ごすうちに自分の気持ちがだんだん農業に傾いていきました。子供の頃から見ていた日本の農業と、米国の農業があまりに違うことに驚き、こういう農業なら自分が将来職業にすることができるのではないかと思いましたね。
昆 それで帰国後、実家の農業を継ぐことを決意したわけですね。
中村 ええ。米国の農場では僕らみたいな研修生やメキシカンを含めてたくさんのスタッフが働いていて、それが新鮮で楽しかった。だからある程度規模を拡大して、人を使うような経営をしたら面白いんじゃないかと思ったんです。それともうひとつの理由は、世界は広くて、いろんな国でリンゴを作っている人たちがいるのだから、そういう人たちに会って、彼らの喜怒哀楽に触れてみたかった。就職するとそれができなくなりますからね。
昆 これまでにどんな国に行かれたのですか?
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中村隆宣
(有)安曇野ファミリー農産代表取締役
企業組合日本ピンクレディー協会代表理事
1958年長野県生まれ。1982年に東京農業大学農学部の果樹園芸科を卒業後、長野県安曇野市にある実家に戻り果樹経営を始める。1996年、農業生産法人(有)安曇野ファミリー農産を設立。学生時代より海外の農場視察を続け、2004年、ルーマニアに「KAMA LAND FRUCT S.R.L」社を設立。05年に現地で農地を取得する。06年、企業組合日本ピンクレディー協会を設立、代表理事に就任。オーストラリアのAPAL(オーストラリアリンゴ洋ナシ生産者協会)とピンクレディーのライセンス契約を締結する。安曇野ファミリー農産の経営面積は13ha(2011年1月現在)。十数品種のリンゴのほか、洋ナシ、ブルーベリー、スイートコーンなどを生産、販売する。ルーマニア農場の紆余曲折については、安曇野ファミリー農産のホームページ(http://www.anc-tv.ne.jp/~apple/)にある「ルーマニアりんご栽培物語」にて紹介されている。
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