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新・農業経営者ルポ

でかい農業から、人と人とをつなぐ楽しい農業へ



 5、6年前、鈴木は長年のつきあいのあった寺田社長に「酒も農産物も同じ。農業をやるならホンモノの農産物を作ったらどうか」といわれ、農薬や肥料に頼らない農業をしようと決めた。ちなみに神崎町は古くから酒造りをはじめとして味噌や醤油造りなど発酵食品の製造が盛んな「発酵の里」として知られている。

 こうざき自然塾として独立した鈴木は、地域との連携を図って、収穫した大豆を加工して自家製味噌を作ったり、寺田本家と協力して酒の仕込み体験イベントを行なったり、小学生を対象に大豆の種まきや枝豆の収穫体験をさせたりという企画を実践している。楽しいですか、と聞くと、「楽しいですね。なにが楽しいかというと、農業を通して人と人とがつながるんです。それが楽しい農業なんです」といって鈴木は笑う。


安全な農作物を自分で売ることへのこだわり

 鈴木は兼業農家の長男として生まれた。神崎町には専業農家は少なかったが、長男だった鈴木は将来はきっと農業をやることになるだろうと思い、農業高校を出た後、農機具の特約店に就職した。時は昭和40年代半ば、テレビでは井関農機が売り出した田植機「さなえ」のCMが流れている頃だった。国産農機がようやく本格生産され始めた時期だった。

 鈴木は会社に勤めつつ、土日には家の農業を手伝い、仕事の暇な冬には雪山でスキーの指導員をしていた。国産農機の黎明期から農機具会社に勤めていた鈴木は農業機械について最新の知識を吸収するとともに、将来の経営のことを想像して、この機械なら何ヘクタールくらい行けるだろうと考えていた。しかし、会社の仕事は楽しく、結局27年間にわたって勤めつづけた。

 農機具会社をやめて専業農家として本格的に就農するきっかけとなったのは、90年から始まった国による土地改良と圃場整備事業だった。地盤の低かった低湿地帯であった土地に、利根川の河川改修によって排出された土砂を大量に盛って、圃場としての生産力を上げようというプロジェクトだった。

 基盤整備は170haにわたって行なわれ、そこに国の助成で専業農家をつくるという目的があった。これはいい機会だということで、鈴木は5人の農家とともに集落営農型の共同経営を始めることにした。それが先ほど述べたこうざきグリーンサービス21である。農機具会社に勤めた知識と経験を生かして、必要な各種の農業機械も独立前に導入した。

 「この大規模な圃場整備は21世紀型プロジェクトということで、当時としては最高の技術を駆使して行なわれました。農業とコミュニティーが一体となった未来型農業ということで表彰もされました。土地を集約して、一集落一農場という国の奨励するポリシーに乗っかったような形でした。私もイケイケな勢いがあったので、いずれは200haをやろうと思っていました。そのために大型機械もどんどん入れたんです」

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