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女の視点で見る農業経営

経営に参加していると実感したとき、仕事の「やる気」が違ってきたんです

外国の会社の場合、共同経営という形が実に多い。例えばシャンプーなどでお馴染みの「P&G(プロクター&ギャンブルーサンホーム社)」などはプロクターさんとギャンブルさんが、車で有名な「ダイムラー・ペンツ」もそれぞれの名前を並べて会社名にしたもの。
 外国の会社の場合、共同経営という形が実に多い。例えばシャンプーなどでお馴染みの「P&G(プロクター&ギャンブルーサンホーム社)」などはプロクターさんとギャンブルさんが、車で有名な「ダイムラー・ベンツ」もそれぞれの名前を並べて会社名にしたもの。彼らは互いをパートナーと呼び、欠かせない存在として会社を創業し経営してきた。農業という職業も同じなのではないだろうか。農業で、日頃アシスタント役に回りがちな妻たちだが、実はアシストがなければ農業はできないもの。重要な役をこなす共同経営者なのである。もし、農業経営をもっと発展させていきたいと考えているならば、この認識は、夫にとっても妻にとっても重要なポイントとなる筈である。

 そこで共同経営者である女性にスポットを当て、女の目から見える農業と経営観を紹介していく。第1回目は長野県で稲作を営む清水照子さんの声。

 昨年秋、農林省は「全国女性農業経営者会議」を発足させた。目標は新時代の農業における女性のネットワークを実現すること。現在60名だが、いずれは500名を目標としていきたいという。その初代会長を務めるのが長野県中野市で農業を営む清水照子さん。

「現在、農家の妻たちは農業労働として大きな分担をこなしながらも、農業を経営として自覚することなく過ごしている女性が多いのではないでしょうか。そんな女性の意識を向上させ、経営に参加しているという自覚をもってもらうため」に、人前で話すのは苦手だといいながらも全国を講演して歩いている。先日、北海道で清水さんの講演を聴く機会を得た。決して流暢とはいえないが、訥々としたしゃべり方に清水さんの素直な人柄が見え隠れする。自分と同じような経験をし、同じような立場の清水さんが農業経営に参加し、農業に誇りを持って従事している姿は、聴講する女性たちの共感を呼ぶ。

 東京で生まれ育ち、ごく普通のOLだった清水さんが農業に携わるようになったのは、ご主人である清水幸三氏(全国農業機械士協議会会長)と出会い、「農業というのはやり方によってはすごく面白いんだよね」という言葉に惹かれて結婚したことで始まる。ところが嫁いでみたら幸三氏白身はサラリーマンをしており、1haの田圃を、舅と姑に照子さんが加わってのいわゆる「三ちゃん農業」からのスタートを切ったのだが、農業のことを何も知らない都会育ちの照子さんにとっては困惑する出来事の連続。見かねた姑に農業から離れることを勧められ、しばらくはサラリーマンの妻という立場になった。覚悟して農家に嫁いだにもかかわらず、農業をしない自分に所在を見失ってしまった日々が続く中、周囲は減反政策の時代となり、見る見る間に田圃がなくなり、荒れ地と化していく。そんな様子を見ながら「稲穂の国がこれでいいのか」と憂えていた幸三氏が、昭和50年の『農業地利用更新法』施行をきっかけに勤めを辞め、農地を借りて本格的な農業をすることとなった。ここで照子さんも復帰して参加。今は亡き舅と三人で新たに借りた18haの農地の整備から始めた。20年前のことである。

 しかし、10年近く放置されていた農地は、整備というより開墾というにふさわしいほど荒れ果てていた。ゴミを拾い、草を取り畦を立ててようやく代かき、田植え。機械もまだそんなに開発されておらず、ほとんどが人力による作業でたいへんだったが、照子さんは「夢中になって体を動かし汗を流せることに、初めて充実感を覚えることができた」という。

 ところが「いよいよ明日から稲刈りだ」と準備をしている最中に幸三氏が過労で倒れて入院。多額の借金をしてスタートを切り、何とか頑張ってここまできたのに、中心となって動いていた幸三氏の入院に呆然となってしまったその日に、農協からコンバインが届けられた。「コンバインって何なんだろうと思って見にいくと戦車みたいなのが畦に置いてあってビックリしました。誰が動かすのかと思っだけど私しかいなくて」挑戦した照子さん。悪戦苦闘しながらも舅と二人で何とか収穫を終えたが、その年は例年にみない冷害。18haの田圃からは550俵の米しか採れなかった。

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