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座談会

読者座談会 父を超えるかどうかより農場のさらなる発展こそが後継者の使命

本誌でたびたび紹介してきた「ニンジンの瀧島さん」で知られる父、秀樹氏。緑肥を生のまますき込む土づくりで連作障害を乗り越え、安定した経営体系を築いてきた。一方、自動車整備という外の世界を経験してから就農した後継者、敦志氏。接客や営業などを就農前に経験したという共通点を持つ親子は会社の発展という同じ目標に向かって歩いている。

昆吉則 世代交代、昔からこのテーマはあるんですけれど、どうやって親が作ってきたものを受け継ぐのか。頑固な親父ほどいろんなことをやっただろうし、それゆえに息子の側が遠慮してしまったり、頑固親父が余計な口出しをしてしまったり、親子は案外、難しいところもありますよね。

瀧島敦志(子) 最近うちに訪ねてくる方々、同じ世代も多いのですがそういう声を多く聞きますね。

トラクタ導入とニンジン栽培で大きく転換した父の代

昆 実は親の知恵というのは、その風土の中にある農家の知恵でもあって、本に書いてある知識以上に価値のあることも多いと思いますが。まず、瀧島さんがこちらで農業を始めて、代替わりをした辺りのことから聞かせてください。

瀧島秀樹(父) 私が嫁いだのは28歳のときです。農機販売店に工場での研修から営業セールスまで合わせて9年間勤めていたのを辞めて来ました。就農当時は、はだか麦と落花生、ホウレンソウ(種子)、サツマイモを3.2haで作っていました。

昆 今の面積はどのくらいですか。

敦志 そんなに変わらないですよ。自畑は3.5ha、借地は2ha強で合わせて6ha強を回しています。

昆 いろいろ変遷がおありかと思いますが、「ニンジンの瀧島さん」になられたのはいつ頃からですか?

秀樹 ニンジンを始めたのは昭和60年頃だったかな。その前にヤマトイモをやっていましたが、スパッとやめてニンジンに切り替えたんですよ。ヤマトイモは少し特殊で人手を入れられないので、広げられなかったですね。

昆 その時、先代も農業をされていたんですか?

秀樹 先代は「60歳になったら手伝いはするけれど経営は譲る」という考えで、私は45歳で引き継ぎました。その時点でニンジンに目をつけて方向を変えました。一つの機械で何でもやれるわけではないですし、大きな冷蔵庫を持っていたので、365日なくてはならないものということで選んだのです。

昆 就農された頃の機械はどのレベルだったんですか。

秀樹 耕うん機ですよ。私が来て5年目に初めてトラクタを導入しました。イセキの24馬力で、サブソイラもセットで。当然、踏圧がかかって硬盤ができてくる。しかもロータリしかついていない。プラウもまだ関東には来ていなかったので、サブソイラで硬盤を破っていました。

昆 あの頃に耕うん機から、24馬力のトラクタに一気にステップアップしたのは凄いですね。

秀樹 その当時で、ロータリをつけて120万円くらいでした。

昆 その頃の大卒の初任給が3~4万円だったから……。

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