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北海道長沼発ヒール・ミヤイの憎まれ口通信

バイオ農業先達国、フィリピンに行きましょう!(2)

フィリピン話の続きである。1978年10月12日、西武鉄道の親会社であった国土計画が、日本野球界の猛獣ライオンズをクラウンライターズから買い取り西武ライオンズとなった同じ日に、ノースウエスト航空、シカゴ発成田経由フィリピン・マニラ行きに乗り込む青年がいた。それはヒール宮井が弱冠20歳のときのビンビンお兄ちゃん物語でもある。

最終目的地は金髪・ブルーアイの宝庫オーストラリアである。今は、なくなってしまった事業だが、北海道における経済農業協同組合連合会であるホクレンは1960年代から海外、特に米国、カナダに農業研修生と言うフレコミで、将来の北海道農業に役立たせようと、主に北海道の若き生産者を送り出していた。その結果、ヒール宮井のような逸材を生み出したのだから、やはり感謝の言葉を忘れずに添えておこう。

個人的には米国に行きたかったが、親と相談して、季節が逆で冬期間ならと言うことで、同じ英語圏であるオーストラリアの夏の農業を経験することになった。

成田からの出発は台風の影響で4時間遅れの出発となった。当然フィリンピンに到着するのも4時間遅れである。マニラ到着後はアムステルダム発マニラ経由シドニー行きに乗る予定であった。若いと言うことは素晴らしいことだ。どう考えてもシドニー行きの飛行機は出発しているのに、後先を全く考えていない無鉄砲さが残る青春真っ盛りの頃でもあった。

マニラではトランジットであったので、入国審査のラインに並ばないで、通過エリアに行こうとすると、フィリピンの入国審査官が近づいて来てパスポートの提示を求められ、最終目的地を聞かれた。

審査官は「シドニー行きはもう出発したよ」と言う。だよな~と、驚きはしなかったが、内心どうすべきか、私の澱みのない目が天を仰いでいたのだろう。そして、そんな気弱さを入国審査官はしっかりと見透かしていたのだ。

「ほら、あそこにいる男に案内させるから入国をして、とりあえず今晩は一泊して、明日、出国しなさい」と優しいお言葉をかけていただいた。

その指差した方向を見るとお兄ちゃんが、山本リンダの手の動きの様にカモーンポーズを取っていた。しかし、どの角度から見てもそれは明らかに怪しい雰囲気プンプンの、小チンピラ風なのだ。

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