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岡本信一の科学する農業

耕すことの功罪を考える

前回は経営によって技術を選択する時代が来ると書いた。耕すということ一つをとっても多くの選択ができる。不耕起栽培をご存知だろうと思う。まだ日本では特殊な技術とみられているが、欧米ではもはや主流となりつつある。選ばれる理由は省力化という意味だけでなく、土壌保全のためでもある。日本でも土壌の保全に関して近々問題になると考えており、一日でも早く耕す方法も土地、経営に合わせて技術検討を行なうべきだと思う。その前に耕すとは何か、そしてその功罪を考えてみよう。

耕すことで農耕地を広げ、農産物の安定収穫を可能に

 おそらく農耕が始まった頃は、地面にちょっとした穴を掘って種を植えたというところから始まり、徐々に新しい道具が発達し、深くまで掘れるようになったことで安定して収穫できるようになってきたのだろう。

 決定版とも言える道具は、1838年ジョン・ディーアと共同経営者によって作られた鋼鉄製の鋤だ。鋤を使って耕せば、従来よりはるかに農耕地を増やすことが容易になった。この基礎となる耕す技術が発展し、現在はそれぞれの地域の土壌に合ったノウハウが確立されている。この鋤の開発がなければ現在の世界人口は養えていないはずだといっても過言ではないのだ。

 しかし、当時は有機物の還元などの必要性が認識されておらず、表土が風や雨によって失われ、耕作不能となって放棄される畑が続出した。土壌の腐食に対する理解が進むにつれ、有機物を還元する必要性が見直さることとなった。これがいわゆる有機農業の本当の始まりではないだろうか。日本でイメージされるものと異なり、有機農業の原点は土壌保全、環境保全を目的としていたのである。

  有機物を還元しながら、農産物を安定的に生産できることこそが、耕すことの「功」の部分である。


耕すこと、農業そのものが最大の環境破壊行為

 反面、実は耕すという行為は最大の環境破壊でもある。というよりも農業そのものが、環境破壊行為そのものだといってもいいくらいである。

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