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女の視点で見る農業経営

休暇や報酬は家族だからこそ明確に

「農家へお嫁に行くのなら、小さくてもいい、二人で働ける専業農家がいい」
休暇や報酬は家族だからこそ明確に。外に出てみれば働く上での悩みはの業だけのことでないこともわかります。

家族経営では給与・報酬の分配がとかく曖昧になりがちだが、千葉県の栗栖夫妻は掛け値なしの年俸制を採っている。提案した喜子さんは、パートナーの理解と自分の希望を提案として話せることが大切という


「農家へお嫁に行くのなら、小さくてもいい、二人で働ける専業農家がいい」

 兼業農家に生まれた喜子さんは、子どもの頃から病弱な体で家業と農作業に追われる母親の姿を見ながら育ったせいか、いつしかそんな願いを抱いていた。 

「初めて主人に会った時は『この世にこんなに痩せてる人がいるのかしら』と思いました。ところが、彼はもう20歳の時から後継していて、家の仕事を任されているというんです。それまでお見合いした人には、そんな人はいませんでした。見た目は痩せていてナヨナヨした感じなのに、中身はちゃんと自立しているんだな、そこが他の人とは違うなって」

 こうして喜子さんは、かねてからの望み通り「二人で働ける専業農家」へ嫁いだのだった。昭和45年、昇さん24歳、喜子さん23歳。意気盛んに新しい試みに挑戦しようとしていた時だった。

 当時の自作地は63aの水田と畑が1ha。それまでは、芋、麦、落花生などを中心に栽培していたが、結婚当初から施設園芸のトマト栽培を始めた。 

「あの頃夫は、坪当たり何万だ! なんて張り切っていましたね。450坪から徐々に増やして750坪までになりました。当時は、主人が『やろう』っていうと、私も一緒に飛びついていった」

 しかし、トマトで成功した友人の話を頼りに進めたものの、なかなかうまくいかない。今思えば、栗栖さんの畑と友人の畑とでは、土壌や気温がかなり違っていたのが原因とも思われるが、当時はそんな情報すらも不足していた。

 苗木はよく育つのに、実は中が空洞の“ピーマントマト”になってしまう。病気にも悩まされていいものがとれない。さらに田植えの時期とも重なって、夜も寝ずに働く日が続いた。

 そのさなか、喜子さんは昭和46年に長男、48年9月には双子の男の子を出産した。だが当時は昔の考え方がまだ根強く残っていて、双子は忌み嫌われていた。親戚の中には、「産むんじゃない」という声もあったほど。

「とてもじゃないけど産まないなんてことはできない。一時は、お父さんと家を出る覚悟をしたほどです」

 期待していたトマト栽培もうまくゆかず、結局苗木をすべて処分することに。家族が増え、出費も嵩む時期だというのに、ミルクを買うお金もなかった。

 トマトを断念したハウスで急濾キュウリ栽培を始めたが、それは12月まで収入は望めない。反対を押し切って双子を産んだ手前、子育てに関しては、誰にも文句を言わせないという意地もあった。そこで喜子さんは一計を案じる。 

「ハウスのサイドにサントウナを蒔いたんです。1ヵ月足らずで大きくなって、市場に持っていくとすぐお金になった。それでなんとかミルクが買えました」

 その後、ハウスは子どもたちの保育園がわりにもなったが、昭和51年の区画整理をきっかけに、ハウス栽培には見切りをつけることに。オイルショックの余波で経費がかかっていたことも原因だった。それからはサツマイモの栽培を経て、昭和53年から本格的にヤマトイモを始める。平成元年には作業場とキュアリング倉庫も導入。現在はヤマトイモを中心に、ゴボウや陸稲を取り入れた輪作を行なっている。結婚当初1haたった畑は、借地も含めて4haに拡大させた。

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