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“被曝農業時代”を生きぬく

自らの手で福島産の安全を伝える果樹農家たち

福島市のふくしま土壌クラブ 代表 高橋賢一・副代表 野崎隆宏 モモやブドウ、リンゴ、ナシなどの豊富な果樹類を産出する福島市。その生産者12人が原発事故を乗り越えるために結成した「ふくしま土壌クラブ」は、放射線量の測定や除染の実験、果樹の安全を訴える活動を自主的に続けている。代表・高橋賢一(43)と副代表・野崎隆宏(46)の二人に話を聞いた。 (取材・まとめ/窪田新之助)

 JR福島駅から車で15分ほど北西に向かって笹谷という地区に入る頃から、複数の種類の果樹が立ち並ぶ園地が広がってきた。間もなく収穫を迎えるリンゴが、赤く色づき始めている。そんな園地の一角にある自宅で、まずは高橋が震災直後の様子から振り返った。

「当時はまさか福島の農業がこんな事態になるとは思いもしませんでした。電気や水道などのライフラインが遮断されたので、生活を立て直すのがやっと、という感じ。それに消防団の活動があって、給水車の手伝いや避難者の世話をすることに追われていました。そのうちに原子力発電所で水素爆発が起こり、この辺りにも何かが降ってきたという噂が流れ始めたんです。といっても情報が乱れて、しばらくはどうなっているのか分からない状態が続きました」
 福島市では果樹をJAに出荷をしながら、個人贈答もする経営体が多い。震災直後、全国の顧客から励ましの電話が次々と鳴り響いた。高橋と呼吸を合わせるように、隣に座った野崎も当時の様子を語り始めた。

「はじめの頃は「津波は大丈夫だったのか」と、心配してくれる電話がどんどん来るんです。「いや、うちは内陸だから大丈夫です」と。そうしたら、「今年も美味しい果物を楽しみに待っていますから」って応援してくれるんですね。それはありがたいわけですよ」
事態が変わり始めたのは4月に入ってから。高橋によれば、原発事故に関する情報が錯そうする中、周りでも自主的に避難する人が出始めたという。
「でも、農家は土地を持って行けるわけでもないし、果樹は今年だけ止めて来年別のものを作るわけもいかないわけだし。とにかく自分たちは避難せずに農作業を続けることにしたんです。ただ、もうその頃には、せっかく作っても果物を以前のように売ることはできないだろうと思っていました。全国の百貨店やスーパーから福島産は扱えないとはっきり言われたからです。彼らも福島産が安全なのか、販売していいのか、判断がつかないわけです。一方で応援してくれるお客さんもいたから、何だか複雑な心境のまま農作業を続けました。そうしたら、6月にサクランボで暫定規制値以下とはいえ放射性物質が検出されたというニュースが流れた。ああ、やっぱり出るんだって思いましたね」
それでも桃やブドウ、ナシ、リンゴはいつもの年と変わりなく実を付けた。高橋は不安や曖昧な気持ちのまま、自分の直売所を開き、放射性物質の検査証を掲示しながら販売していた。そうしたら、何事もなかったかのように、果物を買いに来てくれる客が来た。嬉しくて涙が出る思いがした。しかし、すぐに現実を突きつけられることになる。野崎が代弁する。
「何十年も付き合いのあったお客さんから、突然注文が来なくなったんですね。震災直後はあれだけ応援してくれていたのに。これは辛かったですね。でも、お客さんが悪いわけではない。国は暫定規制値の500ベクレル(当時)を越さなければ大丈夫なんて言ってたけど、それを国民が共有できるかどうかは別問題ですから。何より色々なことが曖昧なままだった。そうこうしていたら、牛肉やコメで暫定規制値を超えるものが出たとニュースになり、やっぱり、福島産は駄目なんだとなったわけです」
高橋によれば、福島産の果樹の市場単価は例年の7分の1ぐらいに落ち込んだ。個人で販売している農家の売り上げも、平均で5割にまで減った。「やはり信頼がなかった」という代表の言葉を野崎が継いだ。
「その言葉通り、お客さんから信頼を得ていなかったんでしょうね。やはり曖昧なままにしておくのは駄目なんだ、と。ここは自分たちがちゃんと、しっかりと勉強をして、対策を取らなければいけないんだと覚悟しました」

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