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同伴者たち

大切なのは処理の技術ではない 循環のよい関係を作ることです/県南衛生工業 代表取締役社長 長葉坂勝

宮城蔵王にほど近い村田町という町のはずれ、山の上に変わった場所がある。省庁に全国各地の行政、団体、そして企業に勤める人々が、はるばる毎日のように訪ねてくるのである。山の入口には遊園地か高級マンションのそれのような瀟酒な造りの門があり、「ハザカプラント」と書かれている。「日本のゴミ問題の解決の方法がここにある!」と人々は騒ぎ立てる。しかしその“解決の方法”を開発した本人は淡々とこう語る。大事なところを見落としていませんかと。
私を認めてくれた人たちの
役に立つために必死だった


 私が清掃業を始めたのは、頭を使わなくてもできるんではないかなと思ったからです。こんなに頭が悪くても、バキュームカーの運転くらいはできるだろうと思ったわけです。

 小学校に入学してすぐの頃、私は先生に「1たす1がなんで2なんですか、誰が決めたんですか」って質問しました。先生は答えてくれなかったんですが、純粋に疑問に思ったことだったので何度も聞きました。そうしたら平手打ちをくらってしまった。以来私はいまで言う登校拒否です。だから、みんな信じてくれないけれど、私は本当に漢字が読めない。

 高校には野球で入ったんですが、3年のとき練習中に鎖骨を骨折してしまって、野球ができないなら野球で入った学校はやめるしかないと中退しました。その後、航空自衛隊に入って、それから捕鯨船に乗って、浄化槽管理会社に勤めたのが昭和43年からです。

 いまでも、私は浄化槽の維持・管理については自信があります。この仕事に大切なのは、”生き物を飼っている”という感覚なんです。浄化槽というのは魔法の壷ではありません。そこに棲んでいる微生物が活躍することで浄化が行なわれる。その辺のことが理解されていないことが多くて、それで成績の悪い浄化槽というものが出てきてしまう。浄化槽を扱うには資格が必要ですが、しかしどんな仕事でも、資格を持っているということと、それを本当に上手に扱えることとは違うことでしょう。

 独立したのは、ひとに使われるままの一生だと思うと、急に寂しくなっちゃったんですね。私は、浄化槽に対する自分の考え方にしたがって、会社の中でいろいろな意見を出していたんですが、なかなか容れられなかった。それで自分白身で浄化槽の維持・管理の仕事がしたくなって独立した。昭和51年でした。

 しかし、独立したといってすぐに仕事ができるわけではない。この仕事には許可が必要です。それで役所に申請にいくわけですが、だいたいどこの市町村も。「うちの管内はもう(事業者がたくさんいて)間にあっているよ」と言って取り合ってくれないんです。また私は同業者の組合にも入らなかったのですが、そのことでいろんなところに手が回って、バキュームカーも売ってもらえなかった。ずいぶんいじめられました。

 けれどそんな中でも、私を認めてくれる人が現れてくれた。ちょうど工場排水と市の屎尿処理場汚泥の処理に困っていた岩沼市が、お前にやってもらうと言ってくれたのです。バキュームカーのほうは中古のものを1台手に入れて、それでやっと仕事が始まっていきました。

 ところが、だんだんお得意さんも増えてきた8年目の頃、また大きな壁にぶち当たりました。汚泥を処分する場所を断たれたんです。

 浄化槽を維持するには、内部に溜まる汚泥を定期的に抜かなくてはいけません。問題は、抜いた汚泥をどこへ持っていくかです。当時は、”農地還元”と称して畑に入れることを、どこの業者もやっていました。しかし生のまま畑に入れるそのやり方では、限度があるんです。作物に障害が出るようになってしまう。しかし廃棄物処理業者というのは、白分かゼニになればいいものだから、借りた農地に後先かまわずどんどん汚泥を入れて畑をだめにしてしまうんです。

 私もその農地還元をやっていたんですが、作物が作れなくなっては困りますから、農家から畑を借りてはいっぱいになり、また借りてはいっぱいになりということの繰り返しでした。このままではいずれ持っていく行き場がなくなるということは目に見えていました。

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