ナビゲーションを飛ばす



記事閲覧

  • このエントリーをはてなブックマークに追加はてな
  • mixiチェック

新・農業経営者ルポ

地域と歩む企業養豚の経営者


そのころの日本政府は外務省移住局や日本海外協力連合を設立するなど、海外への移住を促すのに熱心だった。1952年から73年の間にブラジルだけでも約6万人が渡っている。ただ、大谷は決心がつかなかった。ブラジルといえば地球の裏側であり、「大決心が必要だった」からだ。
もう少しブラジルについて知ろうと思い、愛知県にあった海外移住研修所に入った。先に海外移住とは何かを学ぶことにしたのだ。研修所に集まったのは大谷を含めて19人。このうち、15人が最終的にブラジルへ向かう。その出立日。横浜港で旅立ちを告げる銅鑼の音を聞いている大谷に、旅立つ若者たちは「早く来いよ」と叫んだ。しかし、大谷が彼らの後を追うことはなかった。
ただ、研修所での時間は大谷に海外留学を決意させたのはたしかだった。大陸での農業生活を経験したいと目指したのはアメリカ。国際農友会(現・国際農業者交流協会)の派米実習生となることを希望したが、参加資格の一つは農家出身であること。大谷は黒染め屋の息子であることから無理かと思われたが、農業関係の専門学校を卒業すればその資格を得られるという。そこで入学したのは山梨との県境近い、長野県原村にある八ヶ岳経営伝習中央農場。標高1300mという高地の学校には、当時大谷以外全員が全国からの農家の後継者たちばかりだったが、最近は校名も中央農業実践大学校となり、農業にかかわる仕事を志す学生のほか、農業高校や農林水産省、農業団体の職員が農業を学びに集まってくる。ここで実習を積むことにした。初めて学校に行った日のことは忘れられないという。
「柳行李を担いでバスに揺られていったけれど、もうガタガタ道でねえ。学校近くのバス停に着いたときには牛の臭いがして、夜食べたのは麦飯であったから、ここで本当に頑張れるかなあと不安になりましたよ。八ヶ岳では肥桶を担いで畑作もやったり、百姓の仕事を1年やったわけです。それで、ああ、農業はきついなと。真冬ともなれば零下20℃を下回る。そんな極寒のときには、七輪の暖のそばで5人の若者が身を寄せ合って暮らしていました」
ただ、八ヶ岳での1年はその後の人生を決定づけることとなった。一通りの農作業を経験した中で選んだのは畜産、それも養豚である。
「牛は肉牛と搾乳、鶏は鶏卵とブロイラーと分かれているが、豚だけが一貫生産。自分の努力次第で産仔数が取れるじゃないですか。鶏卵やブロイラーは原種と餌だけでだいたい決まってしまうような気がした。その当時の若造としては養豚がベストな選択だって思ったんです」

関連記事

powered by weblio