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座談会

農業の周辺から農業と自分自身を語ろう(中)
一瞬の金儲けだけを目指す農業の企業化なら明日はない

藤田氏は、昭和50年から有機農産物の産直グループの設立に参加して以来、農業と食べ物の問題に取り組み、同時にそれを市民運動から事業として展開させてきた。一方、小松氏は千葉県農業大学校の教官をする傍らで各種メディアや講演、全国各地の地域活動において、農業青年たちに自立を働きかけてきた、文字通り体を張った教師である。この二氏とともに農業の周辺にいる農業関係者として、農業、農業界、そしてそれにかかわる者としての自分自身について話してみた。世に語られている農業問題というものが、実は農業関係者問題なのであり、その自問なしに農業問題は語れないからである。
農業の価値と可能性をもっと広げて考えてみよう


 藤田 実は本題から離れるんですけれど、農業始めたという宇宙飛行士の秋山さんが、TVで話していたのを聞いたんです。人間は、言葉や目や耳とかを使って外部との関係性を作っていくわけです。しかし、年をとって目も耳も悪くなっても肌の感覚だけは残るんですって。

 小松 それはそうだね。

 藤田 皮膚感覚は残る。ヘレンーケラーのように三重苦でも、肌に触られたときに、言葉はなくても「がんばってね」とかの意志は伝わるという。その感覚が大事なのではないか。運動というものも、百万べんテーゼを語っても、政府を批判しても、生活感覚と関係ないところで議論していても、それは空気みたいなもの。ところがそこに、自分の肌にフィットするような伝え方のできる運動とか農業経営者が必要なんです。言葉じゃなく、皮膚感覚でもって「よーし俺もやってみよう」と周りに感じさせるようなもの。そういうものを作りだす人が農村にも僅かにいるから、それを農村に育て、その応援団になっていく。そのために都市の消費者が必要だ。

 小松 関係性づくりだね、皮膚感覚による。エロティシズムですよ(笑)。

 藤田 もちろん、目でみるものも必要だとは思いますけれどもね。

 昆 農業というと、農家だけのもののようにいわれがちだけど、農業というものはもっと広い範囲を指す言葉にしてもよいのではないでしょうか。お菓子や餅や酒なんかの加工品を作ったり、米売ったり、レストランだったり、少なくとも食品化工業や流通、あるいは消費まで含めて農業というべきではないか。日本では農業展示会というと機械ばかりですが、ヨーロッパではワインだとかそういう加工品の展示もすごく多い。農業の概念が、日本ではすごく狭い範囲の問題として語られる。日本では意図的にそれを狭めているところがあるんじゃないか。

 藤田 日本の社会は科学万能主義です。科学というのは要素還元論で、つまり細分化ですよね。社会の専門化、細分化。お医者さんだったら、昔はひとつの病院で内科から外科から眼科耳鼻科までみんなみてくれたのが、いまはバラバラでしょ。農業もたぶんそんな状況に置かれてしまっている。実は、農業の中にあらゆる産業があるわけですよ。健康なものをちゃんと食べるとなれば医学の分野があったり、生命教育という分野では教育という分野があったり、木があれば、産業でいえば住宅産業になりうる。家具だって着るものだって作りうる。農業の中に、農村の中に内発的に、新しい産業を興せる可能性があるわけですよ。それを米だけを作っていればいい、野菜だけを作っていればいいというところに追い込まれている。あるいは自分たちで思い込んでしまった瞬間に、自分自身で可能性の芽をつんでしまっている。

 昆 今、農業を産業化しようという流れがあるのだけど、それ自体は良いとしても、農水省が指導しようとしているのは、一般の産業界が昭和40年代には捨ててしまったような論理を振り回しているところがある。それと改めての支配の貫徹。ところが、ある種の農家は自分で売ることや民間の新しい流通に触れることを通して農水省の思惑とは別に目覚めてきちゃっている。

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