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農業経営者ルポ

俺は賃耕屋だ!!

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第27回 1998年02月01日

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 否応もなく農業をやらざるを得なかった高柳さんの楽しみといえば機械いじりだった。当時、中古バイクを大枚2500円で手に入れた。その分解整備が何よりもの楽しみだった。それが今の技術力を育てる基本実習だった。昔の工作機械の写真やイラストが載った本を探しに古本屋巡りをして、それに見惚れる。機械や工具と名が付けば黙って見逃せない。高柳さんは文字通りのマニアなのだ。

 高柳さんには、彼が賃耕屋になることを動機付ける幼児体験があった。小学4、5年生の時だった。県の畜産試験場で見たトラクタの実演会である。その時に、開墾用プラウでの作業を見て「自分ならもっと綺麗に枕地を始末するのに」と思ったという。トラクタなど見たこともなかった小学生が…。以来、寝ても覚めてもトラクタに乗る自分の姿を夢見続けた。高柳さんの賃耕屋人生は小学生時代に始まっていたのだ。


代金返済のために始めた賃耕屋


 初めてトラクタに乗ったのは、村が開拓農協に貸し付けたトラクタのオペレータとしてだった。昭和42~43年頃、高柳さんが18歳前後の頃だ。もちろん誰よりも早くその募集に応じた。収入よりただ単にトラクタに乗りたかったから。インターの55馬力だった。

 1年もすると自分のトラクタが欲しくなった。そしてその年、ついにトラクタを買ってしまった。トラクタ普及台数が全国でも2、3百台程度の時代である。

 フォード5000。77馬力の新車だ。ディスクプラウとロータリを付けた。当時で170万円位した。お金などあるわけない。でも、当時家を出て運送の仕事をしていた兄から、100万円を借り、残りは家の金をかき集めた。

 世間からは無茶なことと思われたに違いない。賃耕をやろうと思っての投資というより、欲しくて買ってしまったトラクタの代金返済のために始めた賃耕だったのだから。

 しかたなく「賃耕やります」と名刺を100枚配った。集落外でトラクタを買ったことを聞きつけた人々の注文が殺到した。多分、高柳さんもアルバイトオペレータの体験のなかで、農家のニーズを知っていたのだろう。

 最初の仕事は麦の耕うんだった。10月中旬から11月の初旬までの間、エンジンを止めるのは燃料を入れる時だけ。ほとんど24時間ぶっ通しの作業だった。弟と2交代で、トラクタの上での居眠りをしながら作業を続けるという毎日だった。

 耕賃は10aでロータリが800円、ディスクプラウが1000円にした。それでも、1年間で借金が返せた。

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